六月に投稿した西教寺から南東に二キロほど、琵琶湖に近い比叡辻にも坂本を代表する古刹があります。聖衆来迎寺という天台宗のお寺で、国宝、重要文化財に指定されている数多くの寺宝を有することから近江の正倉院と呼ばれることもあります。
聖衆来迎寺は越前国に通じる西近江路(北国海道、現在の県道五八八号線)が通る比叡辻にあり、西に行くと比叡山延暦寺の鎮守日吉大社に至ります。あたりは現代ではなんということのない琵琶湖に近い街道風景に見えますが、戦国時代の頃の比叡辻は琵琶湖の水運を利用して運ばれた荷物が陸揚げされる物流拠点で、今の運送業者にあたる馬借や車借が集まり、ここから比叡山や京の都に荷物が運ばれていったといいますから、人や物が行き交う活気に満ちた様子が想像できます。ちなみに明智光秀が坂本城を築いたのは、比叡辻から南に一キロほどの湖岸でした。
上は坂本城址公園から見た琵琶湖の風景。対岸には三上山が見えます。後でも触れますが、戦国時代三上山の北数キロのところにある兵主大社で、一時聖衆来迎寺の宝物類を預かってもらっていたことがあります。
寺伝によると、聖衆来迎寺は最澄が延暦九年(七九〇)に自刻の地蔵菩薩をお祀りする地蔵教院を建てたことに始まるとされますが、確証はありません。その後長保三年(一〇〇一)に恵心僧都源信が入り、念仏の道場として再興したとのことで、源信があるとき紫雲の中に阿弥陀如来と二十五菩薩を感得したことから、紫雲山聖衆来迎寺と改められたといいます。
聖衆来迎寺に伝わる数多くの寺宝の中で最も有名なのは、源信の『往生要集』の六道を主題として描かれた六道絵十五幅で、国宝に指定されています。(現在は東京国立博物館などに寄託されています。)初めは比叡山横川の霊山院にあったもので、信長による焼き討ちの際難を逃れて聖衆来迎寺に伝わったようです。源信にゆかりの寺だったためでしょう。
その後五百年あまりの記録がなく不明ですが、『来迎寺要書』や『来迎寺年代記』によると、聖衆来迎寺は室町時代の大永七年(一五二七)に真玄という僧によって中興されています。真玄は近江国守護で観音寺城主六角高頼の五男で、比叡山横川の首楞厳院に入り十九歳で出家しています。
その後時代は戦国時代に突入、付近では京に向かう浅井・朝倉軍と織田軍が戦を交える坂本の合戦が起こっています。当時織田軍は比叡辻から南西に五キロほどの宇佐山城を拠点としており、森可成が大将として守っていましたが、浅井・朝倉軍が数の上で織田軍を圧倒していたうえ、比叡山が浅井・朝倉に加勢したこともあり、織田軍は劣勢になり、森可成や信長の弟信治らが命を落とします。聖衆来迎寺の時の住職真雄は敵方とはいえ森可成の死を悼み、夜闇に紛れて寺に運び葬ったと伝わります。
信長によって比叡山が焼き討ちされたのはその翌年のことです。比叡山から坂本にかけた一帯が壊滅的な被害を被った中、聖衆来迎寺では住職の真雄が仏像や宝物類を携えて僧侶たちと共に琵琶湖対岸の兵主大社に避難し、難を逃れることができました。お寺自体も奇跡的に焼き討ちを免れていますが、これは森可成を弔ったことへの恩からではないかと言われています。境内南側の奥に、森可成のお墓があります。これは森可成の百回忌に合わせ、寛永年間に関備前守長政の寄進で建てられたものです。関長政の父関成次は、森可成の六男森忠政の重臣でした。世代を越えて継承されている忠誠心の厚さに驚きます。
西教寺のところでも触れたように、焼き討ちで壊滅的な状態に陥った坂本の復興に尽力したのが明智光秀で、光秀は聖衆来迎寺にも心を寄せ梵鐘や米などを寄進しています。
天正元年(一五七三)には京都の岡崎にあった元応国清寺(元応寺とも)の本尊などが聖衆来迎寺に移され、天正十七年(一五八九)には正式に合併されます。中世、元応国清寺は法勝寺に並ぶ円頓戒の道場でしたが、応仁の乱で廃寺になっていました。ちなみに法勝寺は天正十八年に西教寺に併合されています。
聖衆来迎寺は江戸時代になると荒廃、それを救ったのが徳川の側近として活躍した天海僧正でした。天海は聖衆来迎寺の宝物類を江戸に運び幕府要人や大名などに供覧するなどして寄付を集め、それを寺の修復に充てたといいます。その後お寺は風水害や大地震などでたびたび本堂などに被害を被りますが、都度修復されています。
江戸時代に天海が行った寺宝の公開は、現在は形を変え、毎年八月十六日に虫干会として聖衆来迎寺内で行われています。国宝の六道絵も琵琶湖文化館から戻され公開されますので、行ってみたいと思っているところです。
松並木の参道を進むと落ち着いた山門が見えてきます。本瓦葺きの薬医門で、元は坂本城にあったと言われますが詳細は不明です。
境内に入ると右に堂々たる本堂が、その奥(西)に客殿が配されています。
正面五間、側面七間の本堂は寛文五年(一六六五)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。建物の周りに巡らされた縁が花崗岩の石造りになっています。お寺の建物では珍しく初めて見ましたが、意外にも建物と調和しています。どのような経緯で縁に石を用いることになったのでしょうか。
下が本堂の奥に建つ客殿。黄色の塀に囲まれており、ここからですとこけら葺の屋根しか見えませんが、風格が感じられます。寛永十五年(一六三八)に起工、十九年(一六四二)に竣工したとのことで、こちらも国の重要文化財に指定されています。
境内奥にあるのが開山堂、源信、天海僧正、徳川家康がお祀りされています。こじんまりとしたお堂ですが、客殿と同じ頃に建てられたもので、江戸初期の精緻な造り、国の重要文化財に指定されています。
この日、事前に連絡をしておいたので、本殿と客殿内部を拝観することができました。写真はありませんが、簡素な外観に比して内部は手の込んだ壮麗な造りです。内陣外陣の柱や天井は極彩色に彩られ、とくに内陣の天井は見事。百花の描かれた格天井には目を見張りました。内陣須弥壇には中央に阿弥陀如来、向かって右に薬師如来、向かって左に釈迦如来がお祀りされています。制作年代はまちまちで作風も異なりますが、光背はよく似ており、三体のご本尊は調和が取れているように感じます。鎌倉時代に作られたとされる釈迦像が一番古く国の重要文化財に指定されています。焼けただれたような跡は、もしかすると信長による焼き討ちで火の手が当時に及んだ際についたものかもしれません。
本堂の外陣にも見事な仏像がお祀りされています。最も印象に残っているのは二体の地蔵菩薩像です。一つは精緻な透かしの光背が美しい地蔵菩薩像。鎌倉時代のものと考えられるそうで、どちらかというと小柄な像ですが、衣紋に截金文様が施され、光背と共に繊細な美しさに見入ってしまいます。もう一体は平安時代のものと考えられる像で、衣も直線的で体もずんぐりしていますが、穏やかなお顔で堂々とした雰囲気、救済を求めたくなるお姿です。案内をしてくださった住職の奥様が、この像は最澄によるもので、ここに最澄が地蔵菩薩をお祀りしたのが聖衆来迎寺の始まりとされていると言われていました。実際にはわかりませんが、平安以来多くの人が手を合わせてきた御像は、どこか神々しく思えます。
客殿にも印象に残る仏像が何体もありました。穏やかな表情に安定感のある姿の十一面観音像。これは元は下阪本戸津浜のお堂にあったもので、真雄上人が夢に従い十一面観音像を聖衆来迎寺に移したところ、翌日お堂の近隣から出火、その後すぐに雨が降って鎮火したことから、火防の観音様と呼ばれているそうです。
客殿にお祀りされている日光・月光菩薩像も気品溢れる美しい像です。これももともと聖衆来迎寺にあったのではなく、京都の元応国清寺から移されたと伝わります。初めにも触れたように、応仁の乱で荒廃した元応国清寺が天正年間に聖衆来迎寺に合併されています。仏像もその際移されたのでしょう。
客殿は襖絵なども残され、大切に受け継がれているのが随所から感じられます。この日は丁寧に案内していただき、聖衆来迎寺の歴史の厚み、寺宝のすばらしさに感じ入りましたが、やはり一番の寺宝である六道絵を拝観したいという思いが募ります。虫干会に行くことができるといいのですが。






















