心に留まった風景

狭山池

所用に追われているうちに、気づけば間もなく六月。「光陰矢のごとし」を痛感する日々です。

河内国の丹比周辺を訪ねたのは三月のことで、まだ寒さで体を硬くしていた季節ですが、その中で投稿しようと思いながらそのままになっていた所がいくつかありますので、今回はそのうちの一つ、狭山池のことを振り返ってみます。

多治速比売神社のところでは古代の丹比について、続く投稿では古代泉北丘陵周辺に築かれた陶邑窯跡群と、陶邑の中心と考えられる陶器山地区の陶荒田神社のことを書きました。今回取り上げる狭山池は、陶器山地区の東にあります。

稲作が行われるようになると、灌漑のため溜池が造られるようになります。とくに古墳時代には農業振興が国家の命運を左右することから、溜池など地溝の開穿は国家事業として行われました。各地に造られた溜池の中で、日本最古と言われているのが大阪の狹山市にある狭山池です。池の周長はおよそ三、四キロメートル。対岸が見えるとはいえ、池としてはかなり大きく、とくに北からの眺めは遠くに葛城・金剛の山並を捉え、のびやかな感じがします。

大阪府と和歌山県の境界をなす和泉山脈は北に向かってなだらかに傾斜し、丘陵地帯を形成しています。泉北丘陵もその一つですが、他にいくつも丘陵があります。古市古墳群方面に続くのが羽曳野丘陵、狹山市と堺市の境界に延びるのが陶器山丘陵で、陶器山丘陵は泉北丘陵の一部と言って差し支えないようですが、狭山池はこの二つの丘陵に挟まれた谷地形を流れる西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め造られました。狹山というのは、文字通りこうした山に挟まれた地形に由来します。

狭山池が日本最古と言われるのは、記紀に次のようなことが記載されているからでしょう。

下は『日本書紀』崇神天皇六十二年秋七月の条。

詔してのたまわく、「なりわい天下あめのしたの大きなるもとなり。おほみたからたのみてくる所なり。今、河内の狹山の埴田水少なし。是を以て、其の国の百姓おほみたからなりわいの事に怠る。其れさわ地溝うなねりて、たみなりわいを寛めよ」とのたまふ。

『古事記』の垂仁天皇の条には、垂仁天皇の皇子である印色入日子命いにしきのいりひのみことが「血沼の池を作り、また狹山の池を作り、また日下の髙津の池を作りたまひき」と記されています。

崇神・垂仁朝の時代の功績として記されているまでで、実際の築造はもっと後でしょう。それについて諸説ありますが、平成二年から行われた調査で、北堤の最下層から発見された木製の樋管を調べたところ、六一六年に切り出された木材であることが判明したことから、池もそれと同時代、つまり飛鳥時代推古天皇の時代に造られたものということでほぼ間違いないようです。地滑りを防ぐために樫などの枝を敷き詰めてそこに土を盛る敷葉工法によって造られています。

 

ちなみにそのときの調査では、六世紀後半から七世紀にかけての須恵器の窯跡も見つかっています。

 

狭山池は今日に至るまで幾度も改修されています。その主なものをいくつかあげてみますと、一つは天平三年(七三一)ごろ行基によって行われたと考えられる改修があります。行基は東大寺の大仏建立にも関わった奈良時代の高僧。民衆の中に入り布教活動をしたことでも知られます。以前このブログでも行基に関連するお寺の一つ昆陽寺と、行基によって造られたとされる昆陽池について投稿しました。そこで行基の活動について触れていますので関心のある方はそちらもご覧ください。行基の活動を伝える『行基年譜』には、天平三年に河内国丹比郡狹山里に狹山池院と尼院を造営したとあり、特に信憑性の高い「天平十三年記」には行基が関わった池の中に狭山池が記されていることから、行基が天平三年頃に狭山池の改修工事を手がけ、その際近くに狹山池院と尼院を造営したということが考えられそうです。

現在狭山池の北側にある狭山池博物館に展示されている北堤の土層断面に、行基の時代に行われた改修の跡を見ることができます。

 

写真ではわかりにくいのですが、中央部分に透明のピンが並行するように打たれていて、下のピンのラインと上のピンのラインの間の高さ六十センチ、幅十二、六メートルの地層が、行基の時代に貯水量の増加を目的にかさ上げされたものだそうです。

主な改修の二つ目は、鎌倉時代の建仁二年(一二〇二)に僧の重源によって行われたものです。それまでの樋管は木製でしたが、取水部と排水部の木材が腐りやすいことから、重源はその部分に古墳時代の石棺を加工した石樋を設置しました。下の写真は、狭山池中樋放水部から出土したもので、古墳時代後期から終末期の刳抜式家型石棺と横口式石槨材が再利用されています。

三つ目は江戸時代の慶長十三年(一六〇八)に片桐且元によって行われた、いわゆる慶長の大改修で、これにより東樋、中樋、西樋が新設され、洪水対策として西除に加え東除も造られました。

現代でもたびたび改修が行われ、昭和六十三年から平成十四年にかけてはこれまでにない規模で大改修が行われ、これまで灌漑用の溜池として使用されてきた狭山池が治水ダムに生まれ変わりました。古来この地域は雨が少なく農業用の水の確保が難しかったことから、国家事業として溜池が多く造られてきましたが、近年かつて溜池だったところが宅地開発され保水機能が衰えたことで水害が起こるようになっていました。平成の大改修はそのための工事でした。

狹山池の歴史はその土地の歴史でもあるということを、痛感させられました。

ちなみに現在狭山池の北堤には千三百本のコシノヒガシという早咲きの桜が植えられています。今年は全般に桜の開花が例年より早かったこともあり、私がここを訪れた三月半ばには既に三分咲きでした。

 

 

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