歴史散歩

黒姫山古墳

かつて丹比野たじひのと呼ばれた大阪南部に拡がる平地に点在する史跡を訪ねたのは、桜がほころびかけた頃でした。多治速比売たじはやひめ神社陶荒田すえあらた神社陶邑窯跡群狭山池などがそれで、この四箇所についてはすでに投稿しましたが、まだいくつか投稿しそびれているところがあります。今回は待機リストの中から黒姫山古墳を取り上げます。教科書に登場することはなく全国的な知名度は低い古墳ではありますが、古代史において大変重要な遺跡です。

黒姫山古墳は五世紀、古墳時代中期に、大阪平野の中央部に築造された前方後円墳です。五世紀といえば巨大古墳で知られる古市古墳群と百舌鳥古墳群が築造された時代です。黒姫山古墳は、古市古墳群を代表する誉田御廟山こんだごびょうやま古墳から西に五キロ、百舌鳥古墳群を代表する大仙古墳から東に六、七キロという、よく知られた両古墳群のちょうど中間に位置しています。墳丘の長さは、これまで一一四メートルとされてきましたが、最新の調査で一二二メートルとするのが妥当ではないかとのことで、誉田御廟山古墳や大仙古墳には及びませんが、古市・百舌鳥古墳群のナンバー2クラスの規模に相当するそうです。(参考『巨大古墳の時代を解く鍵 黒姫山古墳』橋本達也著 新和泉社)

黒姫山古墳が古代史を考える上で大変重要だというのは、前方部の石室から全国的にも例を見ない大量の甲冑が出土したためです。

甲冑というと、大阪府北部の豊中にある桜塚古墳群からもかなりの数の甲冑が出土しており、以前こちらのブログでも触れました。関心のある方は是非そちらもご覧いただけたらと思いますが、黒姫山古墳から出土した甲冑もそれと同時代のもので、帯金式甲冑という古墳時代中期にのみに作られた甲冑です。しかもこの帯金式甲冑は出土した地方ごとに特有の様式がなく、すべて中央、つまり古市・百舌鳥古墳群の勢力下で生産されたもので、大王家との政治的な繋がりから各地の豪族のもとに渡ったと考えられていますので、このタイプの甲冑が出土した場所は、当時政治的に中央との繋がりが密接で、とりわけ軍事的な同盟関係にあったということになります。

ちなみに古墳時代の甲冑はその数や付属品の組み合わせなどから保有者の地位の高さがわかるのだそうです。黒姫山古墳から出土したものはというと、短甲二十四領、衝角付冑しょうかくつきかぶと十一点、眉庇付冑まびさしつきかぶと十三点、頸甲あかべよろい十一点、肩甲かたよろい十二点、草摺くさずり四点、刀十四点、剣十点、やじり五十六点、鉾九点、石突七点、刀子とうす五点と、こうして書いているだけでも圧倒されるような数ですから、被葬者は相当地位の高い人物だったことがうかがえます。これらは前方部墳頂に設けられた石室を埋めつくすように並べられていました。この石室には人体を埋葬した形跡がなく、完全に武器・武具のための埋納空間だったようです。

 

黒姫山古墳の出土品は、古墳のすぐ近くにある堺市立みはら歴史博物館に展示されています。

 

先ほどあげた数は調査時に確認された数で、その後旧美原町に移管されるまでに管理上の問題もあってそれらすべてが揃っているわけではないようです。博物館に展示されているのは、そうした混乱をくぐりぬけた、比較的状態のよい一部ということですが、一部とはいえこうして現物を目の前にすると、古墳時代中期、倭の五王の時代を生きぬいた人の存在が、黒々とした鉄を介し現代まで生きながらえているような気がし、ガラス越しに圧倒されました。

黒姫山古墳からは埴輪も多数出土し、博物館に一部が展示されています。

墳頂の平坦面と中段のテラス面には、円筒埴輪が古墳全体を取り巻くように配置され、その数は千百を超えると考えられています。上の写真でもわかるように、横線が六本の六条七段で、誉田御廟山古墳の円筒埴輪は七条八段ですから、被葬者は大王に次ぐ地位にあったと推測されます。黒姫山古墳には円筒埴輪のほか、様々な形象埴輪も置かれていました。詳細は省きますが、円筒埴輪だけでも千点を超える膨大な数の埴輪が確認されていて、形が技法にばらつきがないことから近くに埴輪の工房があったのではとのことです。

 

では被葬者は誰なのかということですが、古墳時代中期丹比野に勢力を張っていた丹比氏ではないかと考えられています。丹比氏の祖とされる丹比宿禰色鳴たじひのすくねしこめが反正天皇に仕えたと伝わっているように、大王家と密に関わっていたのが丹比氏です。ちなみに反省天皇は倭の五王の珍に比定されています。和風諡号は多治比瑞歯別命たじひみずはわけのみこと丹比柴籬宮たじひしばがきのみや(松原市にある柴籬神社が伝承地)で即位したと言われているように、反正天皇と丹比野の繋がりがうかがえます。

高燥な台地の丹比野は稲作に適さず、五世紀ごろまでほとんど開発されることがありませんでしたが、五世紀に朝鮮半島から土地改良の技術が伝わったことから、手つかずの広大な土地に眼が向けられるようになりました。丹比氏はその主導者として力をつけていったようです。

ちなみに黒姫山古墳の南七キロほどのところに狭山池があり、この池から東除川ひがしよけがわ西除川にしよけがわという二つの川が北に向かって流れています。狭山池が造られたのは飛鳥時代で、丹比氏が丹比野を開いた時代より二百年ほど後になりますが、狭山池の誕生によって丹比野の農業生産は格段に向上し、より一層丹比野の重要性が増しました。飛鳥時代以降の遺跡が多く見つかっているのがその証です。多治速比売神社のところで丹比氏には二系統あると書きました。黒姫山古墳の被葬者と考えられる丹比氏は丹比連たじひのむらじの系列ですが、飛鳥時代以降に出てきたのが丹比公たじひのきみ系列の多治比氏で、多治比氏は生産力のあがった丹比野で勢力を伸ばし、朝廷の中枢で活躍する有力者を輩出しています。

丹比野を開発した丹比氏の奥津城に相応しく、のどかな農村にあった黒姫山古墳も、現在は周囲の景観が大きく変わり、古墳の南をかすめるように高速道路が通る有様です。何もここまですれすれのところに通さなくてもと思いますが、効率が最優先の現代人にとって、五世紀の古墳など無用の長物に過ぎないのかもしれません。

 

 

 

 

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