信長による比叡山焼き討ちの際、一時的に聖衆来迎寺の寺宝を待避させていたのが、琵琶湖東岸に鎮座する兵主大社(正式には兵主神社)でした。現在は野洲川右岸の河口に近い野洲市五条、以前は中主という地名だったところで、周りには広大な近江平野が拡がっています。五条という地名の通り、このあたりは古代条里制が敷かれ、碁盤目状に区割りされた土地に、道や灌漑水路が整備されていました。地図を見ると今でもその名残が見て取れます。ちなみに旧中主町から南東に五、六キロほどの野洲市小篠原にある大岩山丘陵からは、明治と昭和に合わせて二十四個もの銅鐸が見つかっています。島根県の加茂遺跡に次ぐ数だそうで、弥生時代このあたりが農耕、祭祀文化の一大拠点だったことがうかがえます。
社伝によると、景行天皇五十八年、天皇の命により皇子の稲背入彦命が大和国穴師に八千矛神をお祀りし、それを兵主大神として信仰するようになったのが、兵主信仰の始まりで、その後近江国の高穴穂宮への遷都に伴い(景行天皇とその子成務天皇の宮として、近淡海之志賀高穴穂宮の存在を記紀が伝えています)、近くの穴太に社地を定めて兵主大神もそこに遷座、さらに時代下った養老二年(七一八)に現在地に遷されたと伝わります。八千矛神は大国主神や大己貴神の別名です。八千は多いという意味、矛は神霊の依り代とも考えられますが、武器と捉えると武神の性格を有する神になります。八千矛神を兵主大神とするのも、武神の性格からでしょう。兵主神はもとは古代中国の八神の中の武神です。いつしかその信仰が日本に伝わり、記紀の八千矛神と同化していったのではないかと想像します。
「兵主神社縁起」(一六〇四)には養老二年(七一八)に神霊が白蛇の姿で亀に乗って琵琶湖からやってきたとあります。景行天皇の時代については神話的要素が強いので、この縁起にあるように兵主大社の始まりは奈良時代の初め頃とするのがよさそうですが、社地周辺が非常に早くから開けていたことを思うと、兵主信仰はそれ以前から伝わっていたのかもしれません。
ちなみに御祭神が湖を渡って来られたという縁起は、毎年十二月に行われる八ケ崎神事に受け継がれています。兵主神が湖を渡って漂着されたとされる場所(兵主大社に近いマイアミ浜と呼ばれる湖岸)で宮司さんが湖に入り、百メートルほど沖まで進むと御神体を琵琶湖の水で清め、神威の再生を願います。
『日本書紀』の垂仁天皇三年に、新羅の王子・天日槍が渡来し、播磨国から宇治川を遡って近江国の吾名邑に入り、その後若狭を経て但馬国に落ち着いたとありますが、播磨国には播磨国総社の射楯兵主神社が、近江国には兵主大社が、但馬国の出石には大生部兵主神社などが鎮座しているように、天日槍の足跡が伝わる地に兵主大神をお祀りする神社があることから、兵主大神を天日槍とする説もあります。なお、兵主大神は武神のほか、北方守護神や農耕神の性格もあるようです。
いずれにせよ、近江の兵主大社は明神大社に列せられ、中世には武士らから篤い信仰を寄せられていますし、江戸時代には徳川家による土地の寄進もあり、各時代篤く信仰されてきたことがわかります。
兵主大社ではまず朱色の楼門に圧倒されます。一間一戸で屋根は入母屋造檜皮葺、両側に各七メートル弱の切妻造の翼廊が付いています。室町時代足利尊氏による寄進と伝わる楼門で、何度か改修の手が入っていますが、全体の堂々とした雰囲気はおそらく当時のままでしょう。右の翼廊には境外摂社の戸津神社、狩上神社、矢放神社、左の翼廊には二ノ宮神社、浅殿神社、矢取神社の扁額が掛かっています。実際には、右の翼廊の三社は兵主大社の北西に、左の三社は南東に鎮座しています。
楼門をくぐるとすぐ右手に、稲背入彦命をお祀りする乙殿神社があります。稲背入彦命は兵主大神の信仰に寄与したとされます。養老二年に兵主大神が当地に降臨されたことに合わせ、稲背入彦命もここにお祀りされ、農地開拓の神として信仰されてきたとのことです。
石灯籠が並ぶ緑豊かな参道の先に見えてくるのが、翼廊のついた拝殿です。
天保十三年(一八四二)の建造。拝殿に翼廊が付くことで威厳が増すように感じます。説明によると、平安時代の末頃は翼廊前に建物と並行して水路があり、楼門から石敷の参道を進み、水路に架かる橋を渡ってお参りするようになっていたようです。
こちらが兵主大神をお祀りする本殿。桁行一間、梁間一間で屋根は檜皮葺き、棟札などから寛永二十年(一六四三)に建立されたようです。
神社では正面の屋根が背面より長い流造を用いることが多いなか、こちらの本殿は正面と背面の屋根の長さが等しい造りです。
兵主大社本殿の向かって左、境内の南には、国の名勝に指定されている池泉回遊式の庭園があります。
この庭が造られた時期はわかっていませんが、鎌倉時代頃は土豪の館の庭だったと縁起にあるそうです。兵主大社は奈良時代の創建と伝わりますので、神社の隣接地に土豪が造った庭が、居館廃絶後に神社に組み込まれたのでしょうか。その辺りのことはわかりませんが、石組みは古い歴史を伝えるように古式を有しています。
池汀の石の多くは野洲川流域のもののようで、全体に小ぶりです。
池に出島が設けられ、池に沿って歩くにつれ、景色が変わります。
木漏れ日の小径。苔も美しく手入れされています。
この庭園はかなり荒廃が進んでいたこともあり、平成になってから十年以上かけて調査をしながら保存に向けた修理がなされました。近江国の歴史の深さを感じることのできる庭が、この先荒廃することなく守られますように。
































