まちなみ風景

坂本

何かのきっかけで、それまで思い入れが強かったり大好きだった「もの」と距離を置くことになり、久しぶりにそれに対面すると、とことんつきあってきたときの記憶や体験がほどよい案配になっていて、そこにしばらくぶりの新鮮な気持ちが加わることで、最初に夢中になっていたときとは質の異なる、熟成した高揚感を得る、ということがあります。口に出して言うなら「やっぱりいいなぁ」といったところですが、そこには微妙な感情の綾が含まれています。その「もの」とは、絵や音楽のこともあれば、本のこともあるし、時には食べ物にも当てはまります。最近、土地との関わりにおいても、同様の経験をしました。

琵琶湖の南西に、比叡山延暦寺と日吉大社の門前町として栄えた坂本という町があります。山麓に鎮座する日吉大社は全国各地にある日吉神社、日枝神社、山王神社の総本社ですが、元は比叡山の地主神で、延暦寺と日吉大社は古来密接な関わりを持ってきました。山岳信仰と神道と天台宗が融合した山王神道がその何よりの顕れですし、日吉大社に伝わる祭にも延暦寺の僧が関わるものがあり、日本ならではの信仰形態を肌で感じることができるとあって、比叡山から坂本にかけての一帯は、近江国に強い関心を持っていた十数年前、足繁く通った場所でした。

拙著『近江古事風物誌』で山王祭や坂本について一章を設けて書きましたので、ご関心がありましたらお読み頂けたらと思いますが、坂本への思いを本という形にしていったん表に出すと、その後しばらく坂本から足が遠のきました。書き留めたことで気持ちに一区切りついたということもありますし、本の中で新たな生を得た坂本の像を守りたいという書き手としての我が儘のためでもあります。とはいえ、坂本のことが完全に頭の中から消えてしまったわけではありません。近江の本を出した後、私は東海道の取材に時間を費やすようになり、その過程で多くの城を訪ねることになったのですが、城に行くと大抵石垣を目にします。そうした石垣から思い浮かぶのは、石積みの専門集団・穴太衆の町としての坂本でした。また年が改まると、凍てつく寒さの中、日吉大社で見た申楽の舞いを思い、春になれば底冷えのする夜に八王子山から御神輿が駆け下りてくる場面を思い出すといった具合で、坂本や日吉大社のことは、いつも心の片隅にありました。

今年の秋、スイスで暮らす幼なじみ夫婦が日本に来ました。ご主人に会うのは初めてだったのですが、いろいろと話をしている中で、スイス人のご主人は石垣に関心を持っていると知り、それなら今度日本に来たとき、是非坂本を案内したいという話をしました。なぜなら坂本は…と、穴太衆の仕事のことに話題が移ると、スイス人のご主人はその話を身を乗り出すように聞いてくれました。それ以来です。距離を取り、封印していた坂本への思いが心の表面に現れるようになったのは。

足繁く坂本を訪ねていたときから、十五年の歳月が流れていました。時機到来ということかもしれません。

 

久しぶりに訪れた坂本は、相変わらず石垣と大宮川のせせらぎが印象的な美しい町でした。

坂本には今でも多くの里坊が残っています。里坊とは、老僧の隠居所のことです。比叡山上は冬の寒さが厳しく、年老いた僧にはこたえますので、引退後は坂本に下り、山を目にしながら余生を送ったのです。

坂本の美しい景観は里坊とそれらを取り囲む石垣によって作り出されています。上の写真は律院。下は壽量院。

数ある里坊の総里坊は滋賀院門跡(写真下)で、京都法勝寺の建物が下賜され、庭は遠州作と伝わる、落ち着きの中に雅びな雰囲気が感じられます。

滋賀院のことも拙著に書きましたのでここでは省略し、かつて里坊だった旧竹林院の様子を次回ご紹介したいと思います。

 

 

 

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