大阪北部の池田市に伏尾町《ふしおちょう》というところがあります。五月山から北に三キロほどの市最北に位置し、東と北は箕面市、西は兵庫県川西市と接し、町の中央を余野川が流れています。池田や川西の市街地から近い割に自然豊かなところなので、ちょっとした遠出気分を味わいたい時に車を走らせたくなります。
そんな伏尾町の中央に久安寺はあります。創建は奈良時代、聖武天皇の勅願で行基によって開かれた安養院が前身で、平安時代には空海が留錫、戦国時代には豊臣秀吉がここで月見の茶会を開いたと伝わります。
伏尾という地名は、平安時代の末、鳥羽天皇の皇后藤原得子の出産に際し、久安寺の僧賢実上人が安産祈願をし、無事皇子(近衛天皇)が誕生したことにちなみ、不死王と名付けられ、転じて伏尾になったと言われています。
強い陽ざしが照りつけ周囲の山々の緑が力強さを増した五月、久しぶりに久安寺を訪ねました。
余野川に沿うように山を縫う国道に車を走らせていると、朱色の楼門が目に飛び込んできます。間口五、四メートル、奥行き三、六メートルというこの門は、堂々とした構えですが、屋根の先端が反り上がっている軒反りにより、鳥が羽ばたいて飛び立つような軽やかな印象をもたらします。室町時代初期の応永年間に建てられたものか、あるいはその頃に大改修されたと考えられるそうで、久安寺に現存する建物の中で最古になります。国の重要文化財。左右には南北朝時代の作と伝わる金剛力士像が安置されていますが、通常の楼門より二像が少し奥まった位置にあり、柵の外からではよく見えません。これは門の奥行きを実際以上に見せるための工夫なのだとか。
境内へは楼門の右にある通用口から。
内側から見る楼門は白壁が際立ち、より軽やかに見えます。
紫陽花の参道。陽ざしが木々によって程よく遮られています。紫陽花は直射日光の下より、このような木陰にある方が美しく見えます。紫陽花で埋めつくされた参道が目に浮かぶようです。
白壁に沿ってさらに参道を進むと
薬医門が見えてきます。現在は本坊(寺務所)として使われていますが、最盛期境内に四十九の塔頭があった時代の小坂院だったもので、当時は阿弥陀堂や庭園のある立派な塔頭だったようです。
本坊の向かいには榧の老木が参道に覆い被さるように聳えています。豊臣秀吉が久安寺に参拝し月見の茶会を催した際、記念に植樹したと伝わるそうです。その真偽はともかく樹齢は四百年近く、久安寺の歴史を感じさせてくれます。
境内は南北に長く、二万坪に及ぶ広大な敷地を有しています。西側は山裾にあたり、東側は道路と余野川を挟んで山がすぐ近くに迫っています。
拝観の受付を済ませ左に目を向けると、石段の上に御影堂が見えます。背後の山には、四国八十八ヶ所の札所のお砂が祀られており、そこを巡拝する一周一キロの巡拝コースがあるようです。御影堂には後でお参りしますので、そのまま奥(北)へ進みます。
境内中央にあるのが本堂です。この日はツツジが満開で、本堂前を鮮やかに彩っていました。
御本尊は千手観音像。秘仏のため拝観できませんが、昨年開創千三百年を記念して初めて秋に公開されたようです。後一条天皇の勅命で定朝によって造られたもので、聖武天皇勅願の胎内仏が納められていると伝わります。
この千手観音像について、次のような話が伝わっています。久安寺は、平安時代に空海が留錫し真言密教の道場として栄えた安養院が前身ですが、保延六年(一一四〇)に灰燼に帰してしまいます。その際御本尊の千手観音と薬師如来、阿弥陀如来は焼失を免れ、千手観音は岩の上に飛び立ち光を放ったといいます。
灰燼に帰したお寺は、久安元年(一一四五)近衛天皇の勅願所として再興され、その際寺名も久安寺となりました。上は本堂から見た南側の眺め。周囲の山々が境内を包み込んでいるようです。
本堂へのお参り後は、渡り廊下を伝って境内西の傾斜地に建つ三十三所堂や御影堂へ。
こちらが三十三所堂。横に長いお堂で、西国三十三所観音霊場の御本尊を模した観音像がお祀りされています。
この建物の後ろ、つまり西側に阿弥陀堂があり、そこには阿弥陀如来像(国の重要文化財)と薬師如来像、久安寺縁起など宝物がお祀りされていますが、通常は公開されていません。下は本堂前から三十三所堂を見たところです。奥に阿弥陀堂の屋根がのぞいているのがおわかりいただけるかと思います。
三十三所堂からさらに進むと御影堂に至ります。御影堂は受付を過ぎてすぐ、左手に見えていたお堂です。上から見下ろすと、かなりの高さです。このお堂には空海がお祀りされ、真言禅の道場になっています。
お参り後は庭園へ。本堂の北には大日如来を表す梵字バンの形をした池が拡がり、その周りでは桜や牡丹、一初など季節の花々が咲き競います。
このときは一初が見事でした。
上は池から本堂を見たところ。左は枝垂れ桜です。満開のときはさぞやと。
バン字池を中心とした庭の東に小山があります。宇宙の始まりを表す梵字のアにちなみア字山と呼ばれ、山上には三光大善神(日天、月天、妙見尊星王の三柱)がお祀りされています。秀吉は久安寺参拝の際、三光大善神に祈願したとのことで、月見の茶会を催したのもア字山でのことだったようです。
こちらはア字山の三光神社に通じる石段。
山上には祠があり、現在ここには三光大善神のほか、鎮守神(白山妙理権現)、豊臣秀吉公がお祀りされています。三光大善神の一柱が妙見菩薩ということですが、久安寺の北十数キロのところに日本三大妙見の一つ能勢妙見山がありますので、その信仰の拡がりがここにも至ったということでしょうか。ちなみに久安寺から西に五、六キロの川西の多田神社も妙見信仰に縁が深い神社です。妙見信仰はインドの菩薩信仰が中国の道教と習合し日本に伝わったもので、妙見菩薩は北極星や北斗七星を神格化した仏教の天部として信仰されてきました。道教では北極星を背に戦うと勝利するという信仰があり、日本ではあるときから軍神として崇敬されます。秀吉が三光大善神に祈りを捧げたのも、なにかの戦への戦勝祈願だったかもしれません。
境内をさらに北に進むと朱雀池があります。古くからある自然の池で、行基がこの池で小観音を感得したことから、ここが当寺の起源とのこと。行基に縁の場所は全国に数え切れないほどあり、その真偽を確かめることはできませんが、余野川がすぐ東を流れる当地を訪れた可能性は十分あるかもしれません。
何度も久安寺を訪れていながら、詳細な歴史がわからず投稿に至りませんでしたが、今回は少し丁寧に境内を歩きア字山上にある三光神社にお参りしたことで、妙見信仰の流れに思いを至らせることができました。また南北朝時代には北畠親房が久安寺に滞在していたこともあるようで、御本尊の脇侍としてお祀りされている毘沙門天像は親房の寄進と伝わるとわかりましたので、その時代の摂津国の勢力図も調べてみると、久安寺のことももう少しわかるかもしれません。現在でもこれだけのお寺ですから、もっと多くの歴史が埋もれているような気がします。