新しい年が始まりました。今年は私自身と周辺で変化の多い年になりそうですが、何事も前向きに捉え、気持ちも新たにまた一から歩んでいけたらと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年書きかけのまま事情により更新できずにいた宇治の話から今年は始めたいと思います。
昨年の晩秋。この日はあいにくの空模様でしたが、宇治川の風景はいつ見てもいいものです。宇治という地名は、宇治川(菟道河)に由来するように、この川の存在が宇治の歴史に大きく関わっています。
宇治川は琵琶湖から流れ出る唯一の河川です。流れ出てすぐは瀬田川、山背国(山城国)に入ると宇治川と名を変え、かつて存在した巨椋池に流れ込んだ後、木津川、桂川と合流し、淀川となって大阪湾に注ぎます。古代において大和国、近江国、山背国、さらには越の国や東国を結ぶ重要な交通路だったことから、宇治川と川沿いの道には多くの人や物の往来がありました。万葉集に藤原宮の役民の作る歌として、「いはばしる近江の国の衣手の田上山の真木さく檜のつまでをもののふの八十宇治川に玉藻なす浮かべ流せれ」とあるように、宮殿の造営に用いる木材も宇治川を利用して運ばれました。宇治を通る古北陸道(後の奈良街道)が幹線道路として重要だったことから、宇治川にはすでに七世紀には橋が架けられたと伝わります。架設者は僧の道登とする説、道昭とする説などあり、はっきりしませんが、架橋は社会貢献事業に参加することで仏縁を得るという考えのもと行われたようで、宇治橋ができたことで古代の宇治は律令制のもと発展していきました。
宇治橋ができるより二世紀ほど遡った古墳時代、応神天皇が木幡村(現宇治市木幡)で和珥氏(和邇、丸邇とも)の日触使主の娘である宮主矢河枝比売に出会い結婚したと伝わります。二人の間に生まれたのが菟道稚郎子ですが、その菟道稚郎子に縁のある神社が宇治上神社と宇治神社として宇治川沿いに鎮座しています。宇治神社の方が宇治川に近く、上社は宇治神社より数十メートル山側に入ったところにあり、目と鼻の先ということもあって多くの人が続けて二社にお参りしています。宇治上神社が鎮座する山は仏徳山、昨年投稿した興聖寺の山号にもなっている山です。宇治川を挟み平等院と向かい合っている、そんな位置になります。
宇治上神社と宇治神社は現在二社に分かれていますが、明治以前は宇治離宮明神という二社一体のお社で、宇治上神社は離宮上社、宇治神社は離宮下社または若宮と呼ばれていました。
離宮というのは、平安時代初期に風光明媚な宇治川周辺に営まれた離宮に由来するとか、古墳時代の菟道稚郎子の離宮(桐原日桁宮)がこの辺りにあったためとか諸説あるようで、宇治上神社と宇治神社で菟道稚郎子を御祭神としているのは後者の説によります。
まずは宇治上神社から。
宇治上神社の参道は、秋には極彩色に彩られます。ゆっくり進むと石橋の先に控えめな表門が現れます。
この表門がいつのものなのかはわかりませんが、こじんまりとした門は離宮を思わせます。
正面に現れたのは鎌倉時代の建築で寝殿造りの遺構とされる堂々たる拝殿でした。桁行六間、梁間三間、檜皮葺きの建物はどこか邸宅風、国宝に指定されています。
そこから後ろに回り込むと、神社建築として最古と言われる平安時代の本殿(冒頭と下の写真)が姿を現します。もちろんこちらも国宝です。
正面に格子扉の五間社流造。格子扉の内側には三棟の内殿が並び、左殿に稚郎子、中殿に応神天皇、右殿に仁徳天皇がお祀りされています。本殿が平安時代のものなので、この三柱もそのときからお祀りされているのかもしれません。この三柱について『日本書紀』に次のような記述があります。
才能豊かな菟道稚郎子は末っ子でありながら父応神天皇の寵愛を受け皇太子に立てられます。百済から招いた王仁博士のもと勉学に励みますが、応神天皇が亡くなると異母兄の大山守皇子が皇位を狙い菟道稚郎子を殺害しようとします。けれどもその計画は異母兄の大鷦鷯(後の仁徳天皇)と菟道稚郎子の知るところとなり、大山守皇子が菟道川を渡る際に菟道稚郎子の策略によって船を転覆させられ、大山守皇子は水死します。菟道稚郎子は兄である大鷦鷯に皇位を譲ろうと菟道宮に住まわれますが、大鷦鷯は応神天皇の意思を尊重し固辞されたため、三年間皇位が空白になってしまったことから、菟道稚郎子は妹の八田皇女を後宮に迎えるよう遺言して自ら命を絶ち、仁徳天皇の即位となりました。
菟道稚郎子が住まわれた菟道宮が、桐原日桁宮とも呼ばれる離宮で、神社はその跡地に建てられたということです。
しかし『日本書紀』で菟道稚郎子が大鷦鷯と皇位を譲り合ったという話に疑問を呈する研究者は多いようです。菟道稚郎子は山背の和邇氏の娘で、背後には山背の勢力があります。大鷦鷯は河内の勢力のもと力をつけていますので、皇位の譲り合いというのは後世に美化されたもので、実際には二つの勢力の争いだったのではないかということです。菟道稚郎子が自ら命を絶ったとされていることも大鷦鷯による陰謀ではないかという説もありますが、実際はどうだったのでしょうか。
『日本書紀』には、大鷦鷯が「菟道の山の上に葬りまつる」とあります。菟道の山を朝日山(仏徳山に続き、興聖寺や宇治上神社の背後にある山)とした時代もあり、山頂には江戸時代に建てられた墓碑がありますが、その後明治になり宇治上神社のあたりから宇治川沿いに八百メートルほど下流にある宇治墓(丸山古墳)が菟道稚郎子の御陵と治定されています。
ちなみに仁徳天皇は葛城襲津彦の娘磐之媛を妃にするも、妃は大変嫉妬深く、菟道稚郎子の妹である八田皇女を迎えることができずにいました。あるとき仁徳天皇が八田皇女を宮中に入れると、激怒した皇后は山城の筒城宮に移りそこで没したため、仁徳天皇は八田皇女を皇后に立てています。
菟道稚郎子にゆかりの宇治にいると、古代の勢力争いにまで思いが及びます。
平安時代になると、宇治は別荘地として人気の場所になります。藤原道長も宇治川沿いに別荘を手に入れ、頼道によってそこが平等院とされたことは有名ですが、宇治上神社は宇治神社と共に平等院の鎮守社となり、隆盛を極めました。神社の創建も平等院創建とほぼ同じ頃という説もあります。
本殿に向かって右端に岩神様と呼ばれる大きな岩があります。以前はしめ縄が張られていたものの、いまはさりげなく置かれているこの岩は、古代信仰の名残の可能性もあるようです。
境内には桐原水と呼ばれる清水が湧き出しています。背後の山がもたらす水ですが、清らかな水の地で古代祈りが捧げられたとしても不思議ではありません。
ちなみに境内には武甕槌命と天児屋根命をお祀りする摂社の春日社があり、藤原氏との縁がうかがえます。社殿は国の重要文化財。中世から近世にかけては土地の産土神として信仰を集めてきました。
かつては仏徳山(離宮山)も含む広大な境内で、江戸時代の初めに前回投稿した興聖寺に東側が割譲されています。現在は小さな神社ですが、記録に残っている以上に古い歴史が堆積しているようです。
宇治川に面した通りに朱色の鳥居が立っているのが宇治神社です。
石段を上り、桐原殿という拝殿から回り込んで奥に進むと
二ノ鳥居のさらに数段高いところに本殿があります。
宇治神社の御祭神は菟道稚郎子命の一柱です。神社では先ほど触れた『日本書紀』の話を受け、仁徳天皇が即位した年に菟道稚郎子をお祀りしたことに始まると伝えています。
本殿はこの奥にありよく見えませんが、鎌倉時代初期のもので国の重要文化財に指定されています。また本殿には、拝観はできませんが菟道稚郎子命の御神像がお祀りされています。
『万葉集』巻九に柿本人麻呂による次のような歌があります。(一七九五)
妹らがり今木の嶺に茂り立つ 夫松の木は古人見けむ
宇治若郎子所で詠まれた歌で、古人は菟道稚郎子。夫の訪れを待つという木を、昔菟道稚郎子も見ただろうかと解釈できますが、こうした歌からも菟道稚郎子の存在がこの地で語り継がれてきたことがうかがえます。

































