まちなみ風景

喜連の環濠集落(一)

全国どこにでも難読地名がありますが、大阪にいると読み方を想像することすらできない地名によく出くわします。以前投稿した阿遅速雄あぢはやお神社が鎮座する放出はなてんはその代表ですし、観音岩のある交野かたのも初めてですと読めないでしょう。観音岩と同じ交野市にある星田妙見についても以前投稿しましたが、星田妙見の最寄り駅は私市きさいちといい、これもまず読めません。ちなみに駅周辺には私市という地名も残っています。

今回取り上げる喜連きれも難読地名の代表です。大阪市営地下鉄谷町線に喜連瓜破きれうりわりという駅名があるとはいえ、この辺になじみがない人にとっては、喜連も読めないうえ、喜連瓜破となってはさらに読めないということになります。私などもまさにそうでしたが、わかってしまえばこの軽快な感じのする地名は印象に残ります。

喜連は久礼が転訛したもので、「きれ」という音に字を当てる際美しいとか喜ばしいという意味を持つ字を用いる往古の習慣から、喜連となったようです。元の地名だったという久礼は、呉の国から機織りの技術を持った呉人が当地に住み着いたことに由来するという説もあれば、『日本書紀』雄略天皇十四年に「呉の客の道を為りて、磯歯津路しはつみちに通す。呉坂と名く」とある「呉坂」に由来するという説もありますが、確定的な史料はなく、実際のところはわかりません。雄略天皇は五世紀に実在した天皇で、中国の『宋書』にある倭の五王の武と考えられているように、雄略天皇が交流を持ったのは宋でした。一方『日本書紀』では雄略天皇の時代に呉の国に遣使している記述が複数あります。中国に呉という国があったのは二二二年から二八〇年ですので、時代が合いません。この食い違いの原因はわかりませんが、『日本書紀』雄略天皇の時代には複数回にわたり呉との交流が記され、呉の人を明日香の檜前に住まわせ、そこを呉原を名付けたともあり(呉原は現在の明日香村栗原です)ますので、『日本書紀』が編纂された八世紀には宋を呉と認識していたのでしょうか…。ちなみに呉の国から機織りの技術がもたらされた話は各地にあり、以前投稿した大阪池田市にある伊居太神社呉服神社などは、機織りの技術を呉からもたらした女性を御祭神としてお祀りしています。

このように「くれ」については不明なことばかりですが、『万葉集』巻二十に、三首の題詞として河内国伎人郷かわちのくにくれのさと」とあるように、伎人を「くれ」と読んでいた例もあります。その題詞は次の通りです。

天平勝宝八歳丙申二月、朔乙酉にして二十四日戊申、太上天皇おほきすめらみこと大后おほきさきと、河内の離宮とつみや幸行いでまして、ふつかを経て、壬子を以て難波の宮に伝幸したまふ。三月七日、河内国伎人郷の馬国人うまのくにひとが家にうたげする歌三首

天平勝宝八年は七五六年、聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇太后が行幸の際、官人だった馬国人うまのくにひと(王仁の後裔という渡来系の西文氏かわちのふみうじ)が、河内国の自邸に大伴家持や大伴池主を招いて歌会を催したということで、上の題詞の後に三首の歌が続きますが、ここに記されている伎人郷は喜連のことだと言われています。

ちなみに、伎人を「くれ」と呼ぶのは、呉の人が伎楽に長けていたことによるという説があるようですが、この伎は渡来人を意味する古渡才伎こわたりのてひと今来才伎いまきのてひとから来ているのではという気もします。『日本書紀』雄略天皇七年に「百済の貢れる今来の才伎を大嶋の中に集聚つどへて」とあるように、今来の才伎は五世紀から六世紀頃に様々な技術を携えて列島に移住した渡来人のことで、五世紀から六世紀頃というと古市や百舌鳥の古墳群が築かれた時代ですから、土木技術を持った渡来人がそれに関わったはずです。『日本書紀』によれば今来才伎は百済系ということになりますが、大陸からの渡来人も多かったのではないかということで、河内国伎人郷は河内国の渡来人の郷と読み解きたくなります。

ちなみに喜連瓜破という駅名は、長居公園通を挟んで北側が喜連、南側が瓜破という地名で、ちょうどその境界に地下鉄の駅ができるというので、両方を取って喜連瓜破となったのだそうです。

喜連も瓜破も中高野街道が南北に通っています。街道歩きの途中で初めてそこに足を踏み入れましたが、大阪平野の中心部であるにもかかわらず時計の針を巻き戻したような歴史散策を楽しむことができました。とくに喜連は、杭全くまた神社のある平野同様、かつて環濠集落だった土地で、細い路地にその名残があります。町を囲む水路は水深三メートルほどで、その範囲は南北におよそ三百メートル、東西約四百メートルでした。環濠集落の中心にある如願寺が、中世に喜連城(羽曳野にあった高屋城の属城)の主館となり、そこに細川氏綱が居住したこともあったようです。

ということで、今回は中高野街道歩きの途中で目にした喜連の様子をご紹介します。

平野を抜け、中高野街道を南に歩いていると、交差点の角に地蔵堂が見えてきます。これが環濠集落の目印で、街道に通じる出入り口の六カ所にこうした地蔵堂があります。つまり左右の道に、かつて環濠があったということで、昭和三十年代まで道幅の約半分の環濠が残り、石垣が築かれ、石橋が架かっていたそうです。

 

 

この地蔵堂は、中高野街道の北の出入り口にあるので北口地蔵堂といいます。細川氏綱が喜連城主だった室町時代の天文年間(一五三二~五五)に創建されたもので、石造のお地蔵様がお祀りされています。かつて環濠集落への出入り口には木戸が設けられていましたが、明治時代に廃止されました。現在の地蔵堂は明治十年(一八七七)に再建されたとのことなので、木戸の廃止に伴ってのことだったのかもしれません。

 

この北口地蔵を右に見てそのまま直進するのが中高野街道ですが、環濠集落の周囲をぐるりと回ってから、町の中に入っていこうと思います。ということで北から歩いてきた中高野街道を左折し、東方向へ。

このすぐ先で右に折れ、南方向へ。左には幼稚園、右には如願寺。

寺伝によると、如願寺は聖徳太子によって創建された喜連寺が前身で、七寺を擁する大寺院だったそうです。平安時代空海によって再興され、如願寺に改められました。現在の本堂は享保年間の再建です。現在は真言宗御室派です。

先ほど触れたように、中世喜連城の本陣がここに置かれていたとのこと。

如願寺は北に隣接する楯原神社の神宮寺でした。楯原神社については後で触れます。

 

如願寺を過ぎると道は緩やかにカーブし、南東方向へ。

そこに見えてきたのが尻矢口地蔵堂です。環濠集落の北東、つまり鬼門の位置にあります。尻矢口というのは、喜連城から見て尻(後方)の備えの矢口に当たるのでそう呼ばれているもので、昭和十五年頃までは荷車や馬車が通れるほどの石橋が架かっていたそうです。また環濠が埋め立てられる昭和三十五年まで、地蔵堂は立派な石垣が土台になっていたとのこと。

 

尻矢口地蔵堂を過ぎ、南に進むと、東口地蔵堂が見えてきます。

昭和三十七年まで、東口地蔵堂の東(向かって右)には環濠があり、石垣が築かれていたそうです。

東口地蔵堂を過ぎると、道は西へ。右に江戸時代後期に建築されたという浅井家の長屋門があります。

 

 

そのすぐ先には文政五年(一八二三)築の服部家。

この家は交差点の北東角にあります。下はその交差点から右(北)を見たところです。この道についても後で触れます。

 

交差点の左に馬倉地蔵堂があります。かつてここに馬の繋ぎ場があったことから、そう呼ばれるそうです。

かつて環濠はここで枡形に掘られており、地蔵堂は枡形の北にあったとか。

 

馬倉地蔵堂から西に進むと、左には風格あるお屋敷が、奥に法明寺の屋根が見えてきます。

左に見えたお屋敷は江戸時代中期に建てられた長橋家で、門は明治時代に狹山北条守陣屋裏門を移築したものです。長橋家は江戸時代から漢方の長橋楠栄堂を営んできました。大相撲大阪場所の際には、東関部屋の宿舎として使われているようです。

 

 

正面に見えた法明寺は貞和三年(一三四七)に、融通念仏宗中興の祖七世の法明上人によって創建されたと伝わり、江戸時代には融通念仏宗の中本山として、本山大念仏寺(平野区)の重要な法要を行ってきたそうです。塀に白い五本線が入っていますが、これはこのお寺の格式の高さを表しています。

 

先ほどの長橋家の西隣、法明寺とは道を挟んだ南東に南口地蔵堂があります。下の写真は西から見たところ。地蔵堂の後ろに見えるのが長橋家です。

かつては法明寺の南に環濠があり、南口地蔵堂は環濠の南側に東向きに建っていたといいますので、ちょうど上の写真の右に見える電柱付近に、現在の地蔵堂の方向を向いて建っていたことになります。

 

西に進み、二本目の電柱の先で右折し、今度は北へ。

突き当たりに見えてくるのが西口地蔵堂です。お堂の前の道は中小路といって、環濠集落を東西に貫いています。これについても後で触れます。西口地蔵堂から八十メートルほど北に進み、右折。

東に百五十メートルほど行くと、環濠跡巡りの出発点にした北口地蔵堂が見えてきます。

上の写真で左右に通っているのが中高野街道です。環濠集落のさらなる魅力は町中にありますので、次回は町の中をご紹介します。

 

 

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