いつまでも眺めていたい風景の一つが琵琶湖の景色です。湖の上には広大な空、風の気まぐれで運ばれてきた雲は、太陽の光と戯れながら、空のキャンバスに様々な色で模様を描き出します。ある日のこと。灰色の曇空が、はらりと破片を落とし、空に現れた青い小さなしみが次第に空全体に拡がっていきます。しばらく見ていると、今度はそこに夕陽の反射を受けた淡い薄紫の膜がかかり、比叡山に夕陽が沈む頃には低く垂れ込めた雲がさざ波のような模様を空に描きながら、空全体があかね色に染まっていきます。自由自在な自然の遊びはこちらの予想を超え、広大な琵琶湖と空が創り出す自然劇場を前に、片時も目を離せなくなります。一カ所に留まり、時の移ろいに身を任せていると、近江の自然はこういう贈り物をくれるのです。
他方で琵琶湖周辺を移動しているとき、こんなところからもと目を喜ばせてくれる風景もあります。それは近江富士と呼ばれる三上山で、小ぶりながら円錐形の秀麗な姿は、湖東平野はもちろん対岸の湖西からもたびたび目に入ります。湖西の高台から琵琶湖に向かって道を下るとき、膳所や坂本、堅田などの湖岸に立ち琵琶湖を眺めているとき、琵琶湖の東西を結ぶ近江大橋や琵琶湖大橋を車で走っているとき、三上山は背後に連なる山の黒い稜線に埋もれることなく視界に飛び込んできます。オーケストラと共演するソリストの音が、大勢の奏でる音の中から立ち上がって聞こえてくるのに似て、その姿を捉えたときは近江の風土の主役に出会えたようで心が弾みます。三上山を目にするたびに、この山の姿は琵琶湖風景に欠かせない存在で、琵琶湖の別称マザーレイクに倣い近江の母なる山だなとつくづく思います。
ところで三上山は古来信仰の対象でした。それを伝える最たるものが、三上山の北麓に位置する大岩山という丘陵の先端から発見された、合計二十四個もの銅鐸です。明治時代に十四個、昭和になって十個の大発見で、一カ所からの出土数としては島根県の加茂岩倉遺跡の三十九個に次ぐ多さです。弥生時代後期のもので、近畿式と三遠式のものが混ざっていることから、東西の文化交流がここで行われていた可能性があるというのですから、近江がその頃からすでにそうした役割を持っていたのかと驚かされます。また明治に発見された銅鐸の一つは高さが一三四センチと国内最大です。銅鐸は初めは小型で音を鳴らしながら祭祀に使われていたものが、時代を経るにつれ巨大化し、崇める存在に変化していきます。大岩山の銅鐸は銅鐸祭祀の終末期のものということになり、ここから出土した銅鐸が地域の横軸と時間の縦軸両方を内包していることに感じ入ります。
また三上山の南には野洲川が流れ、琵琶湖に通じています。野洲川は大量の土砂を運び、河口に広大な三角州を造りました。伏流水が豊富な肥沃な土地では、弥生時代の早い時期から稲作が行われています。三上山の周辺で服部遺跡や下之郷遺跡、伊勢遺跡といった弥生時代の集落遺跡がいくつも見つかっており、中でも下之郷遺跡はそこが政治や経済の中心的存在だったことを伝える大規模な環濠集落ということで国の史跡に指定されています。
さらに銅鐸が見つかった大岩山から南西に三キロほどの場所から、今年になり弥生時代中期末頃の巨大な掘立柱の建物跡が見つかりました。弥生時代から中世にかけての集落遺跡である中畑・古里遺跡の南側で、真正面に三上山が大きく迫っています。大阪和泉市の池上曽根遺跡からもいずみの高殿と呼ばれる大型掘立柱建物が発見され、国の史跡として復元展示されていますが、今回発見された建物もそれに匹敵する規模で、梁行七メートル、桁行十八メートル、床面積一二六平方メートルと近畿地方では最大級です。銅鐸の出土地に近く、三上山を目の前に望む立地にあることから、三上山の銅鐸祭祀が行われた祭殿の可能性があるのではないかと言われています。胸躍る発見で、専門家からもその価値を高く評価されているので当然ここも国の史跡として保存されるものと思っていましたが、ホームセンターを造る計画があって今更変更できず、一部が破壊されるかもしれないという報道を見たときには言葉を失いました。野洲市は全面保存には費用の点で市民の理解を得られないと弱腰です。結局、建物の位置をずらし柱穴を一部保存するということで決着が付いたようで、かろうじて破壊は免れましたが、遺跡は埋め戻されてしまいます。パネルで展示されるとはいえ、遺跡は視界から消え、そこにどのような規模の建物がどのような向きで建っていたのか、凡人の想像力で補うことはできそうにありません。滋賀県はもとより日本の歴史にとって大変価値のある遺跡ですし、そもそもここを含む三上山の一帯は弥生時代非常に先進的な暮らしを営んでいた土地で、山を中心に古来から人々の祈りが堆積しています。日本の歴史に重要な役割を果たした土地は奈良や京都だけではありません。湖国近江もそれに並ぶ重要な土地だったのですから、近江の価値にもっと関心が集まるといいのですが。
ところで、祭殿の可能性のある建物跡が見つかった場所から国道沿いに南に一キロ半ほどのところに鎮座しているのが、御上神社です。
社伝によると、孝霊天皇六年天之御影神が三上山の山頂に降臨され、御上祝が三上山を磐境と定め天之御影神を斎き祀ったのが始まりで、その後養老二年(七一八)藤原不比等が元正天皇の勅命で遙拝所のあった榧木原と呼ばれていた山麓の現社地に、飛騨の工匠を造営使として榧で社殿を造営し、そこに神様を遷座したとのことです。
『古事記』の開化天皇の段に日子坐王(開化天皇第三皇子)の子の話として次のような記述があります。
「近つ淡海の御上の祝がもちいつく天之御影の神の女、息長の水依比売を娶りて生みたまへる子は、丹波の比古多多須美知能宇斯の王。次に、水穂之真若の王。次に…(中略)…この美知能宇斯の弟、水穂の真若の王は(近つ淡海の安の直が祖ぞ)。」(新潮日本古典集成)
天之御影神の六世孫にあたる息長氏を父とする水依比売から生まれた水穂の真若の王の子孫が近つ淡海の安直、野洲を本拠に琵琶湖の東部を支配していた安国造ということで、三上山の祭祀も安国造が担っていたのではないでしょうか。
御上神社は三上山の西麓に鎮座しています。
遠くから見るときれいな円錐形に見える三上山は、こうして間近に見ると山が二つに分かれて見えます。手前の低い方が女山、奥の高い方が本峰の男山で、男山でも標高は四三二メートルと低山の部類ですが、実際に登ると岩場をよじ登るような険しいところもあります。
いまも三上山山頂には奥宮があります。磐座と思われる巨岩もあり、先の伝承を彷彿とさせます。
山頂からは湖東の風景が一望できます。時間の流れがゆったりと感じられる場所。登ったのはずいぶん前ですが、いまなおそのときの記憶が鮮明に残っています。
現在の神社に話を進めますと、御上神社は古代信仰対象である三上山をご神体とする神社ですから、三輪山をご神体とする大神神社の拝殿が山を背に建っているように、御上神社の社殿も三上山を背にしているのかと思いましたが、御上神社の社殿配置はそうではありません。
社殿は南向き。三上山は社殿の東にあります。鳥居をくぐると楼門、拝殿、本殿が北に向かって一直線に並んでいます。
ちなみに、先ほどの鳥居の西側にも鳥居があり、こちらからの参道は三上山の方向に向かっています。
証拠はありませんが、もともとの表参道はこちらだったのではないかという気がしています。
西の鳥居から参道を進むと小川が流れています。近くに御手洗川親水公園があるので、御手洗川というのでしょうか。清らかな湧き水。そこに設けられた手水舎で清め、楼門の前へ。
南向きに聳える檜皮葺きの堂々とした楼門は国の重要文化財に指定されています。
建立年代は諸説ありはっきりしませんが、鎌倉時代後期頃のようです。
下から見上げると木造建築の技術に圧倒されます。
正面両脇に随身の像。神域を守護する役割を担った守護像です。
楼門をくぐると日よけ用なのか屋根付きの通廊が設けられており、拝殿を正面から見ることができず、こちらは西側から見た姿になります。
桁行三間、梁間三間の檜皮葺き、入母屋造り、旧本殿を移築改築したものと伝わります。こちらも鎌倉時代後期頃の建築とされ、国の重要文化財に指定されています。屋根の美しさに目を奪われます。
さらにその北に本殿があります。
本殿も桁行三間、梁間三間の檜皮葺き、入母屋造り、鎌倉時代後期頃のものと考えられています。この本殿は入母屋造りに漆喰壁や連子格子が用いられ、神社の本殿とは趣が異なり、仏堂といった感じがします。本殿は国宝に指定されています。
本殿から拝殿、楼門を見ると、それほど広くはない境内に主要な建物が凝縮して並び建つ印象です。
三上山の信仰の歴史と現在見るこの社殿の向きが私の中でしっくり結びつきません。おそらく初めは里宮に社殿はなかったはずです。現在のように山の西側に南向きに社殿が建てられたのは、長い時間の中で少しずつ信仰のあり方が変わっていき、神様は山ではなく社殿にいらっしゃると考えらられるようになったのかもしれません。
三上山の麓には古代から中世にかけて東光寺という大寺院があり、多くの伽藍を擁していたと伝わります。東光寺は戦国時代に焼失してしまいますが、御上神社と共に三上山の麓で神仏習合の信仰を伝えていましたので、現在御上神社の本殿に仏堂の影響が見られるのも、その名残なのでしょう。東光寺はいまはありませんが、東光寺の仏像が三上山の麓の宗泉寺に伝わり、毎年夏にご開帳になるとのことですので、来年お参りに行ってみたいと思っています。
最後にお祭りのことを少し。本殿の向かって左(西)に、本殿に並ぶように摂社の若宮神社の社殿が建っています。本殿や拝殿などと同時代のもので、小さな社殿ですが風格が感じられます。毎年十月に行われる秋祭りはずいきで作られる御神輿が出ることからずいき祭とも呼ばれますが、このお祭りは若宮神社の祭礼で、相撲神事も行われます。一連の神事は現在に至るまで氏子によって担われています。いわゆる宮座神事で、以前取材したことのある予祝神事であるおこないもその代表ですが、御上神社にもそれが残っているとは。三上山周辺の魅力は尽きません。



































