まちなみ風景

富田林(二)旧杉山家住宅

小板橋      

ゆきずりのわが小板橋   /  しらしらとひと枝のうばら  /   いづこより流れ寄りし。

君まつと踏みし夕に  /    いひしらず沁みて匂ひき。

 

今はとて思ひ痛みて   /   君が名も夢も捨てむと   /   なげきつつ夕わたれば、

あゝうばら、あともとどめず、/   小板橋ひとりゆらめく。

 

題にもなっている小板橋は、富田林の南を流れる石川に架かっていた板橋です。想いを寄せる人を待っていてもその願いはかなわない、乙女の切ない恋心が慎ましくも強く詠われています。静かな情景が目に浮かび、言葉が心に残る珠玉の詩篇です。

この詩の作者は石上露子。

本名を杉山タカといい、富田林八人衆(富田林の寺内町形成に尽力した有力者たちのことです。寺内町の成立については富田林(一)をご覧ください。)の系統を継ぐ富田林きっての旧家杉山家の長女として明治十五年(一八八二)に生まれました。

杉山家は江戸時代に酒造業を営んで財をなし、タカが生まれた頃には杉山家所有の土地は町内を含む十ヶ村にも及び、南河内一の大地主だったといいます。

父は進歩的な考えの持ち主で教養高く、母も漢書に素養があったことから、タカは幼いときから古典に親しみ、上方舞や箏なども相当な腕前だったようですが、当時の杉山家は大家族だったうえに非常に複雑な家族構成でした。タカの祖父母も同居していましたが、祖母は実の祖母ではなく祖父の再婚相手で、継祖母と祖父の間には子供が三人おり、一番下はタカより一歳しか違いませんでした。さらにタカが十三歳のときには母が家を出てしまいます。父は数年後に再婚、家では継祖母が実権を握るようになりました。

多感な時代、タカの心中は察するに余りありますが、タカには婿養子を迎え家督を継ぐ運命がのしかかっており、そこから逃れることはできなかったのです。タカが文学の世界に心を寄せるようになったのも、そうした家庭環境が大きく影響しています。与謝野鉄幹主宰の新詩社の社友として、雑誌『明星』に初めて短歌を寄稿したのが二十一歳のとき。その後「婦女新聞」などに文章を発表していくなか生まれたのが「小板橋」です。

「小板橋」は明治四十年(一九〇七)二十五歳のとき『明星』に発表されたもので、露子が生涯に残した唯一の詩ですが、迎えたばかりの入り婿から文筆活動を禁じられ、発表の翌年夫の手で新詩社への脱退届けが書かれた後、二十四年もの間作品を発表することはありませんでした。次第に石上露子の名は忘れられていきますが、生田春月が刊行した『日本近代名詞集』に「小板橋」が収録されたことから、この詩だけは忘れられることなく、人々に愛唱され続けました。

冒頭にあげた「小板橋」は、杉山タカが石上露子として最も華やいだ時期の作品、まるで一瞬の線香花火のような、可憐で繊細な美を秘めています。

 

  

富田林の寺内町に、ひときわ目を惹く旧家・杉山家住宅があります。いま簡単に生涯を述べた歌人・石上露子はこの家で生まれ、この家で育ち、この家を継ぎ、最後の当主となりました。広大な敷地に建つ重厚な四層屋根の母屋が、旧家の伝統と重みを感じさせます。

早速中に入ってみましょう。

小さな引き戸を開けると、太い梁が目を惹く広い土間、奥にはおくどさんが見えます。土間部分は一七世紀中頃の建築で、現存する主屋では最も古く、その後座敷や二階部分が増築されていったようです。

 

座敷に上がると、まず左手前、路に面したところに格子の間があり、外の様子をそれとなくうかがうことができます。陽の低い冬には、冒頭の写真のように繊細な格子が畳に映し出されます。

  

 

その奥には店奥と仏間があります。

  

 

さらに奥へ進むと、大床の間。宝永年間に増築されました。能舞台を模した二間の大床には、狩野派絵師による老松の障壁画が描かれ、周囲の壁には桂離宮に使われているものと同じ赤みがかった大阪土が使われています。襖絵には波に千鳥が描かれています。タカが持っていたもう一つのペンネーム「石川の夕ちどり」はこれに着想を得たものとか。

  

 

台所奥に二階へ通じる螺旋階段があります。伝統的な日本家屋の中にあって、この階段はモダンで目を惹きます。明治の後期に造られたといいますから、その頃タカは女学生だったでしょうか、それとも「小板橋」を発表したころだったでしょうか、あるいは入り婿を迎えて書くことを許されず苦しみを胸に秘めていたころでしょうか。

 

こちらは享保十九年(一七三四)に増築された奥座敷。繊細で奥ゆかしい意匠、どちらかというと簡素なこの部屋を晩年露子が愛し、一日の大半をここで過ごしたそうです。

露子は昭和六年(一九三一)『明星』の後継誌『冬柏』に短歌の寄稿を再開するも、二十数年の不幸な家庭環境は純粋な抒情歌人の心を変えてしまったのか、投稿は途切れがちでした。

そんな露子に与謝野晶子は次のような手紙を送っています。

お歌毎月お遣し願上候。(中略)人生何が残り候やと考え候へば、はかなきものながら歌のたぐひに候べし。あなた様のお歌、天質として優婉なる上に、古典の味あり、御実感に根ざしながら露骨ならず、尤も目に立ちて特色を持ちたまひ候。御作を後の世にも御留め下されたく候。

けれども露子は結局四年ほどで投稿をやめてしまいました。

 

二人の息子に先立たれ、昭和三十四年(一九五九)七十七歳で生涯を終えた露子は、最晩年数首の歌を残していました。下はそのうちの一首。

現しよの ゆめよりさめて七十路の いまはしづかに 暮るゝまたまし  「石上露子遺稿」

この歌も、奥座敷で詠まれたものかもしれません。ここに歌や詩への心残りを読み取るのは私だけでしょうか。

露子が家を継がなくてもよい立場だったら、歌人として、詩人して、誰もが知る存在になったかどうかは神のみぞ知ることですが、たった一篇の詩であっても、「小板橋」が世に出たことで石上露子の存在は語り継がれていくことでしょう。一等星のような光でなくても、見る者の心を捉える光は存在するし、むしろそういう光のほうが永く深く心に浸透するということもあるのです。

 

旧杉山家住宅:開館時間午前十時~午後五時 月曜休み(月曜日が祝日の場合は翌火曜が休み) 入館料四百円

 

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コメント

    • wpmaster
    • 2018年 2月 15日

    コメントをどうもありがとうございます。杉山家住宅を訪ね、歴史を背負った旧家で繰り広げられた人間模様に、複雑な思いを抱きました。そういう時代があったのですよね。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 2月 15日

    僭越ではありますが、ぼくも、詩や歌へのこころ残りを淡く感じます。小板橋ひとりゆらめくに寂しさに胸が痛みます。人と人との出会いが、人生の喜び、悲しみを決めるものですね。入り婿の感性なのか、露子への嫉妬心なのかは、知らず。

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