古社寺風景

酬恩庵一休寺

一休さんというと、テレビアニメの影響から頓知の小僧さんのイメージが広く浸透していますが、その元となった説話は江戸時代に作られたもので、完全なフィクションです。

一休さんのモデルは、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、一休宗純(一三九四~一四八一)。権力を嫌い、権威におもね形骸化した仏教を批判したり風刺したりする型破りな態度が耳目を集め、風狂として広く知られました。そうしたことが、説話に取り入れられ、今私たちの間に浸透している一休さん像ができあがっていったのでしょう。

一休宗純が生まれたのは明徳五年(一三九四)、南北朝が合一した二年後で、一休宗純は後小松天皇と女官との間の子供と言われていますが、母親が南朝高官の子孫だったことから宮中を追い出され、一休宗純は民家で誕生したと伝わります。幼名は千菊丸、六歳のとき京都の安国寺に出され、周建と名付けられました。群を抜いて賢かった周建は、幼少の頃から詩の才能にも長けており、優れた漢詩を残しています。

次第に処世にばかり目を向ける周りの僧侶たちに疑問を呈するようになり、応永十七年(一四一〇)十七歳のとき、安国寺を出て西金寺の謙翁宗為けんおうそういの門を叩きます。謙翁宗為は妙心寺の無因宗因むいんそういうの高弟で、純粋禅に徹し貧しい中で厳しい修行を行っていました。周建はその教えを習得しようと無心で修行に励んでいたところ、謙翁和尚が病に倒れてしまいます。そしてあるとき、もう教えることはないと認められ、宗純という名を与えられました。応永二十一年(一四一四)謙翁宗為が他界、その後失意から自殺未遂を計ったと伝わります。

その後宗純は、謙翁宗為が生前自分が死んだら訪ねるとよいと言い残していた、大徳寺の華叟宗曇かそうそうどんに教えを請うべく、堅田(滋賀県大津市)にある祥瑞庵の門を叩きます。ここでも清貧の厳しい修行が続きましたが、「洞山三頓の棒」という公案を解いたことから、華叟宗曇より一休の法号を授けられます。二十五歳のときのことです。(下が堅田にある祥瑞庵です。)

その後も修行に励んだ一休は独自の禅境に身をゆだねる日々を送るようになり、すでに退位していた父の後小松院に面会する機会も持っています。後小松院は一休に何かと相談をもちかけたようで、後花園天皇の即位も一休による推挙が背景にあるとも言われています。

華叟宗曇も後小松院も世を去ると、一休は権門の大寺にいることを嫌い、ひっそりと草庵で暮らすなど、居を転々とするようになります。そうした中で庶民との交流も生まれ、多くの人に親しまれる存在になっていったのでしょう。三十代から六十代半ばごろまでの一休の足跡は、大坂の和泉や堺、洛中、大徳寺の如意庵、高槻などに残されていますが、最晩年ようやく京田辺の地に落ち着きました。そこは木津川の西、南山城の、自然豊かで静かな土地です。

それが今回取り上げる酬恩庵一休寺です。

康正二年(一四五六)六十三歳の一休は、京田辺の薪村にある妙勝寺が戦乱で荒れていたことから、寺の復興を決意します。妙勝寺は大徳寺開山の大燈国師の師である大応国師が創建したお寺で、まずは大応国師の像を造らせ開山堂に安置、師恩に報いるという意味で酬恩庵としました。(一休寺と呼ばれるようになったのは、後のことです)

それが縁となり、一休は七十五歳の応仁二年(一四六八)に、大徳寺二代住持徹翁和尚の百年忌を酬恩庵で行うなど、ますます酬恩庵との縁を深めていきます。

酬恩庵には一休を慕い多くの人が訪れました。茶の湯の村田珠光、能の金春禅竹、俳諧の山崎宗鑑、絵画の蘇我蛇足、連歌師の宗長など。以前投稿した「歩いて旅した東海道」の丸子で、宗長のことを書きましたが、宗長自身晩年を一休ゆかりの地で過ごしたいと願った、そのゆかりの地が、ここ酬恩庵だったのです。

酬恩庵では森女という盲目の傀儡との出会いもありました。寝る場所もない森女に同情し、自身の庵室に招き入れたことから、二人の間には愛情が芽生えたと言われます。

八十一歳のとき、勅命で大徳寺の住持に任じられた際も、大徳寺に住むことはなく、酬恩庵から通って戦乱で荒れた大徳寺を復興させました。

晩年の一休はマラリアの症状があり、悪化したり持ち直したりを繰り返していましたが、文明十三年(一四八一)八八歳のとき、症状が悪化し酬恩庵で入寂しました。生前自分の墓として庵の隣に寿塔を建てた場所に葬られています。(写真下:現在は宮内庁が管理する御陵墓のため、立ち入ることができません)

 

大燈門第残燈を滅す 解き難し吟懐一夜の水 五十年来簑笠の客 愧慚きざんす今日紫衣の僧

大徳寺住持となって間もなく、一休はこのような詩を詠みました。五十年来簑笠をつけて行脚してきた自分は、紫衣をつけるなど恥ずかしくてできないというわけです。大徳寺に通える距離にありながら、自然豊かで鄙びた風情のある京田辺の地は、最晩年の一休が心静かに暮らすには最適の地だったようです。

 

酬恩庵が一休最晩年の地で、一休はここで風狂の生を閉じ、いまもここに眠っていることから、一休の生涯をざっと振り返ってみました。

ここからは境内の様子をお伝えしましょう。

色づいた木々を見ながら石畳の参道を進むと、左手に浴室の建物が見えてきます。

慶安三年(一六五〇)築、国の重要文化財です。浴室向かいで受け付けを済ませ、右に折れ西の方向に進むと一休宗純の陵墓があります。先ほども触れたように、陵墓のため内部に立ち入ることはできませんが、菊の透かし彫りの門越しに中をのぞくと、左右に大きく張り出した特徴的な屋根を持つお堂の手前に、枯山水庭園が見えます。一休と親交のあった村田珠光の作です。

陵墓の西隣には虎丘庵。これは京都東山の麓にあった建物を、応仁の乱を避けるため一休が七四歳のとき当地に移築したものです。通常は非公開ですが、私がお参りに行ったとき、偶然特別公開中で、拝観することができました。それについては最後に触れることにして、先に進みます。

虎丘庵の北側に庫裏と方丈があります。上の写真は庫裏。方丈建物の写真はありませんが、襖絵は狩野探幽、仏間には一休晩年の木彫像が安置され、格調高い室内です。

方丈庭園がまた見事です。方丈を囲み南、東、北に造られた趣向の異なる三つの庭は、石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の合作ではないかと考えられ、国の名勝に指定されています。

冒頭の写真は南の枯山水で、奥には皐月の丸い刈り込み、向かって右(西)には蘇鉄や山茶花を配した白砂の庭です。生け垣の奥に見える屋根が、虎丘庵です。

こちらは東の枯山水。石を多数配し十六羅漢を表しているそうです。

 

こちらが北の枯山水。豪壮な石組みの蓬莱庭園です。

 

方丈庭園の後にし、さらに奥へと進みます。

苔と紅葉の参道が本堂へと誘ってくれます。

 

こちらが本堂。本尊の釈迦如来坐像と文殊普賢菩薩像がお祀りされています。永享年間に足利義教の帰依により建立されたもので、国の重要文化財です。

 

本堂から更に奥へ進むと、開山堂があります。

開山堂は大正時代の再建ですが、様式はかつてのものを踏襲しています。一休が妙勝寺再興の際に造らせた大応国師の像はここに安置されています。

色づいた木々を眺めながらの散策は時を忘れますが、最後に、先ほど触れずにいた虎丘庵に戻ってみましょう。

ひっそりと目立たない入り口ですが、この奥に一休が七四歳から八八歳で亡くなるまでの十四年を過ごした虎丘庵があります。

虎丘庵は三間の簡素な建物で、最晩年の一休はここで過ごしたといいます。床の間の横に設けられた窓を開けると、塀越しに一休が自身の手で造った寿塔が目に入ります。かつてはこの塀がなかったので、近い将来自分が入る墓を眺めながら日々を過ごしたことになります。

 

酬恩庵にいる一休をたずね、多くの人がここを訪れました。先ほども触れたように、そうそうたる顔ぶれで、ここはある種の文化サロン的な場所でもありました。

陵墓の庭同様、こちらの庭も村田珠光によります。

訪ねる人があるときは、この庭を愛でながら茶の湯をたしなんだり、詩歌を詠んだり、あるいは世の行く末について語り合ったりしたのでしょうか。

ここは晩年を共に過ごした森女との暮らしの場でもありました。

長年清貧に身を置き、厳しい修行の後に自らの禅を獲得した一休の最晩年の姿を思い描くのに、ここほどふさわしい場所はありません。いつまでも身を置いていたい静かな庵室でした。

 

 

 

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