古社寺風景

比叡山横川

しばらく大阪の投稿が続いたので、今回は趣向を変え久しぶりに近江のことを。

「うみ」と呼ばれることもある広大な琵琶湖ですが、琵琶湖大橋から南の南湖は対岸までの距離が二、三キロということもあり、向こう岸の風景が手に取るように見えます。下の写真は琵琶湖大橋から見た堅田の町並、背後に聳えるのは比叡山です。

堅田は琵琶湖の幅が最も狭いところに位置しているため、古くから湖上交通の要衝として栄えていました。平安時代には下鴨神社の御厨みくりやが置かれ鮮魚を献上する代わりに諸役が免除され、続けて比叡山横川の荘園にもなったことから、次第に地侍や商工業者、農民らが団結して堅田衆となり、自治都市として発展していきました。室町時代になると、堅田衆は延暦寺から堅田関の運営を任されるようにもなります。ところが応仁二年(一四六八)に延暦寺によって堅田の町が焼き払われ、ほぼ全域が焼失してしまいました。いわゆる堅田大責かたたおおぜめです。堅田衆が足利将軍御所再建のための木材を積んだ船を差し押さえたことが将軍の逆鱗に触れ、延暦寺に堅田の処分を求めたことからの焼き討ちだったようですが、それ以前に延暦寺の仏敵蓮如を堅田の本福寺が匿ったということもあり、延暦寺は堅田衆の力にかなり警戒していたのではないでしょうか。堅田大責の際、堅田の人たちは沖島に避難し、二年後にはまた堅田に戻ってきて町を再建したそうです。圧巻の団結力そして生命力です。

 

堅田のことは機会を改め書くことにして、今回は堅田と因縁の深い比叡山の横川よかわへ。

全盛期だった平安時代、比叡山延暦寺は三塔十六谷三千坊と言われるほどの規模を誇っていましたが、信長による比叡山焼き討ちにより全山焼き払われたのは周知の通りです。現在は東西およそ五キロ、南北およそ八キロの寺域に二百ほどのお寺があります。三塔のうち東塔とうどう西塔さいとうは山頂に近いところにありますが、横川はそこから北に四キロほどと少し離れているので、東塔・西塔に比べ人も少なく静寂に身を置くことができます。

もう十年以上も前のこと、千日回峰行を二度も達成された酒井大阿闍梨によるご祈祷に参列したことがあります。当時は電車とバスを利用して横川まで行ったはずで、そのころはまだ若かった…。薄暗いお堂に大勢の人が膝をつき合わせるように座り、熱心に真言を唱えている場に身を置いて、なんだか自分だけ場違いなところに来てしまったような感じもしましたが、そのとき俄仕込みで唱えた御真言はある種音楽のように体にしみついて、心の中で繰り返す機会が増えました。ご祈祷の後、酒井大阿闍梨から受けた御加持の感触はいまも残っています。

今回は楽をして車で横川へ。奥比叡ドライブウェイは少し紅葉が始まった山を縫う気持ちのよい道で、途中の展望台からは琵琶湖を一望できます。

 

中央に見えるのは琵琶湖大橋で、その手前が冒頭にも触れた堅田です。湖上を行き交う船の様子もよく見えます。

 

上の写真に見えるのが沖島。堅田大責の際堅田の住民たちはここに避難しました。

 

ところで横川は、最澄の時代にはまだ手つかずでした。開かれたのは最澄入寂から二十八年後の嘉祥三年(八五〇)、慈覚大師円仁により中堂が建立されたことに始まります。昭和十七年に落雷で焼失し、現在のお堂は昭和四十六年に鉄筋コンクリートで再建されたものですが、冒頭の写真のように石段下から見上げる朱色の舞台造りは印象的です。

 

中堂の北西の小山にも朱色が鮮やかな多宝塔があります。円仁が横川の根本杉のほこらの中で法華経の書写をしたことにちなみ、写経を納めるお堂として根本如法塔があった場所に、再建されたとのこと。

 

 

横川中堂でのお詣りを済ませ、木立の中を東の方向に歩いていくと、高浜虚子の供養塔を見つけました。高浜虚子は天台座主と親交があり、たびたび比叡山を訪れ、作品を書きました。横川中堂が落雷で焼失した際も寄付をしています。そのようなご縁で生前墓として供養塔が建てられ、虛子没後は分骨されたそうです。

 

 

やがて木立は鐘楼のところで突き当たります。右に行くと源信の旧跡である恵心堂があります。小さく目立たないお堂ですが、紅葉の奥にひっそりと佇むその風情がとても好きです。源信はここで『往生要集』を書きました。

 

来た道を北の方向に戻り、鐘楼を過ぎると良源の住居跡と伝わる元三大師堂に出ます。

良源は元三大師といった方が通りがよいかもしれません。一月三日に入寂されたので元三大師ということですが、良源は焼失していたお堂を再建したり、山内の規律を改めたり、天台教学を整備し僧侶の育成に努めるなど、比叡山の後の発展を支える基礎作りをした中興の祖として尊ばれています。ちなみに『往生要集』を著した源信は良源の弟子です。第十八代天台座主にまでなられた高僧ですが、良源は大変強い法力をお持ちだったことから多くの霊験譚が伝わっています。その中で最も有名なのが角大師としての良源でしょう。これは鬼の姿になって疫病神を追い払った良源を表したもので、そのときの姿が魔除けの護符として人気なのです。ちなみに良源が観音菩薩に祈念し授かった五言四句の偈文げもん(観音菩薩の言葉)がおみくじの原型ということで、ここはおみくじ発祥の地とされています。

門をくぐると正面に元三大師堂。良源がお祀りされています。村上天皇の勅命で春夏秋冬に法華経が講義されたことから四季講堂とも呼ばれます。このお堂の両側には道場として使われている鶏足院潅室と旧恵雲院が向かい合って建っています。向かって左の旧恵雲院に履き古した草鞋がいくつもつるされています。これは千日回峰行の行者さんが履いた草鞋です。千日回峰行は十二年間比叡山に籠もり、七年間千日にわたり祈りを捧げながら山道を歩く大変厳しい命がけの修行です。(拙著『近江古事風物誌』の「比叡山の千日回峰行」でいくらか書いていますので、ご関心のある方は是非そちらもご覧ください。)一日に歩く距離は何年目の修行なのかによって異なりますが、最初の五年間は一日三十キロです。しかもただ三十キロのんびり歩くのではありません。険しい山道をまだ暗いうちから駆け抜けるのです。厳しい精神統一と祈りを持続させながら。そういう修行をされた行者さんが身につけていた草鞋がこんな風につるされていると、最初戸惑いますが、この草履によってもはや人間の域を超えた修行をされた行者さんの、人間としてのぬくもりが伝わってくるような気がします。

以前酒井大阿闍梨から受けた御加持の感触が甦ってきました。

 

 

 

季節は刻々と進んでいます。私が横川を訪れたときにはまだ青かった木々も、きっと今は赤や黄色に染まっていることでしょう。

 

 

 

 

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