神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみはいろにみゆらむ
(神山の近くにある大田の沢のかきつばたに深くお願いする恋は、かきつばたの色のようになんと一途で美しく可憐なんだろう)
平安時代末期から鎌倉時代にかけての公家で歌人の藤原俊成のこの歌にもあるように、洛北大田神社境内の大田の沢は古くから杜若の群生地でした。神山は賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)の北およそ二キロほどのところにある低山で、上賀茂神社の御祭神の降臨地と言われています。大田神社は上賀茂神社の境外摂社です。
今年は季節の巡りが早く、桜が例年より二週間近く早く満開になりました。杜若も同様で、いつもなら五月の葵祭の時期が見頃なのですが、今年はこの時期でもやや盛りを過ぎています。また、六年ほど前には鹿の食害に遭いかなりダメージを被り、その後柵を設けるなどして花を守ってきたものの、全盛期の状態にはまだ戻っていないようで、場所によって空いた感じがします。とはいえ平安時代以来長い歳月人々に愛でられてきた大田の沢の杜若は気品に溢れ、見ていると背筋がのびるようです。
大田の沢はおよそ二千平方メートル。近くにある深泥池同様に、古代はここも沼地でした。京都盆地が第四期洪積世に湖だったことを伝える遺産でもあることから、ここに群生する杜若と共に国の天然記念物に指定されています。
杜若の間に鴨を発見。雌は盛んに水中に頭を突っ込んで食事に夢中。雄はその様子を見守るように、後をついて泳いでいました。
大田の沢を後に、新緑に覆われた参道を北に向かって歩いていくと、奥に拝殿が見えてきます。
大田神社の拝殿は割拝殿といって中央部分を土間にして通り抜けられるようになっています。割拝殿を持つ神社は、火祭りで知られる由岐神社や伏見の藤森神社、御香宮神社、大阪堺の桜井神社など。社殿建築としては古い形態のようです。
現在の大田神社の本殿と拝殿は共に寛永五年(一六二八)年築。(写真下 手前が本殿、奥が拝殿)
大田神社の御祭神は天鈿女命です。神話において天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、激しい踊りで神々の笑いを誘い、それによって天照大神に岩戸を開けさせたと記されていることから、芸能の神とされていますが、大田神社という社名から以前投稿した陶荒田神社のところで触れた大田田根子のことを今一度思い返してみます。
大田田根子について、『日本書紀』では「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり。」、『古事記』では「あは、大物主の大神、陶津耳の命の女、活玉依毘売を娶りて生みたまへる子、名は櫛御方の命の子、飯肩巣見の命の子、建甕槌の命の子、あれ意富多々泥古ぞ」と書かれていて、大田田根子の後裔については、『日本書紀』では三輪君の始祖、『古事記』では三輪君と鴨君の祖とあります。
大田田根子の母系に通じる陶津耳は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の御祭神である賀茂建角身命の別名にもなっています。そこから大田田根子と鴨氏との繋がりがうかがえるということを陶荒田神社のところで書きましたが、大田神社が境外摂社になっている賀茂別雷神社、通称上賀茂神社でお祀りしているのは下鴨神社の御祭神の御子神にあたる賀茂別雷命ですから、大田神社の大田は賀茂氏の祖とされる大田田根子に由来すると考えたくなります。
いずれにしても、大田の沢を擁する大田神社から、賀茂氏以前の歴史がうかがえます。
なお平成十七年(二〇〇五)に地元住民によって神社の裏山の道が整備されました。
大田の小径と名付けられた山道を歩いていると、途中眺望の開ける場所があり、京都の町を望むことができます。