この日は朝から一日雨の予報でした。前日までは予報が外れるといいのにと期待混じりで空に目をやっていましたが、夜の帳が下りる頃には穂高の山々に厚い雲が垂れ込め、明け方に窓外の森がしっとりと重たくなっているのを見て、気持ちが切り替わりました。つい青空を求めてしまいますが、雨ならではの良さもあります。とくに上高地のような場所では雨がもたらす自然の魅力を楽しむ絶好の機会かもしれません。そう思い直し、この日予定していた明神を目指すことにしました。その前に、足慣らしのため早朝田代橋から河童橋の間を少し歩いてみました。
梓川右岸から見える六百山は雲に覆われ、水墨画さながらの世界に変わっています。
新緑のケショウヤナギをふんわりと覆うようにたなびく雲。早朝、小雨ということもあり、梓川の流れはまだ蒼を残していました。
前日、河童橋の後ろに雄大な姿を見せてくれていた穂高連山はすでに半分ほどが隠れています。明神へはここから左岸づたいに三キロほど。右岸の方が距離が長く起伏も大きいようです。行き左岸、帰りは右岸を歩くことにし、万全の身支度をして出直しました。
道は比較的平坦で歩きやすいとはいえ、雨脚が強まるにつれ、足取りが次第に重くなっていきます。
一時間以上歩いた頃でしょうか、迫力ある押出しが現れました。下白沢の押出しです。
花崗岩の白い砂礫が残雪のように地面を覆っています。この辺りの木々はまだ細く、軽やかです。
道は梓川に近づいたり離れたり。晴れていれば鋭い稜線の明神岳が目の前に見えるはずですが、この天気ではその姿を想像するしかありません。
いつ到着するのだろうと思っていたときです。草むらをのぞき込んでいる人が数人。何だろうと近づいていくと、サンカヨウが雨に濡れ透明な姿で頭をもたげていました。山野草に詳しい友人から、上高地に行ったら是非探してみてと言われていた植物の一つです。葉は蕗に似て、直径一~二センチほどの小さな白い花を数個付けます。前日から気に掛けて歩いていましたが、山歩きの経験が少ない私には、一度も見たことのない花を見つけるのは至難の業。偶然出会った人に教えてもらったおかげで、目にすることができました。
サンカヨウはガラスの花とかスケルトンフラワーとも呼ばれます。開花は一週間ほどで、ちょうどそのタイミングに低温高湿の状態になったときだけ透明になります。繊細な花なので雨が激しすぎると花が落ちてしまいますし、雨が降ったからといって必ずしも透明になるとは限らないとのことなので、この状態のサンカヨウに出会えたのは幸運でした。雨の恵みを通じて小さな幸せを頂いた気分。実際サンカヨウの花言葉の一つも幸せでした。
サンカヨウが咲く場所から明神へはすぐでした。通常なら河童橋から五十分ほどで明神に到着しますが、雨のせいで倍近くの時間がかかりました。上高地まで車道が通っていなかった時代、上高地へは島々から徳本峠越えで入っていました。明神はその時代上高地の玄関口で、上高地といえば明神でした。上高地を世界に広く紹介したウェストンをはじめ、高村光太郎、芥川龍之介なども徳本峠から上高地に入っています。
この日はあいにくの天気でしたが、この後ろに明神岳が聳えています。明神岳は主峰一峰が二九三一メートルで五峰まで鋭い稜線が続いています。(一)の冒頭で触れたように、上高地の名は穂高見命が穂高に降臨したことを表す「神降地」、あるいは神様が祀られている場所を意味する「神垣内」「神河内」に由来すると言われます。穂高見命が降臨したとされるのは、明神岳の北に聳える北アルプス最高峰の奥穂高ですが、明神岳はその東南に聳える前穂高の手前に続く山で、その鋭さは立つ稲穂のようとされてきました。現在登山道がないこともあって登る人はあまりいないとのこと。むしろそれは神域としての山にとっては良いことかもしれません。
降臨した神様は、麓に拡がる明神池畔にある穂高神社奥宮にお祀りされています。雨の中、一時間以上歩いてここを目指した目的の一つが、この神社にお詣りすることでした。
濁った梓川に架かる明神橋を渡り、右岸へ。
鳥居の奥に見えるのが雲に包まれた明神岳。雨に打たれながら神域に入ります。
池の手前に小さな拝殿が設けられていますが、より神様に近づくため池の方へ。
視界が開けたその先に、明神岳を背に豊かな水を湛える明神池が拡がっていました。鏡池とも呼ばれるように、晴れていたら鏡のようにその水面は滑らかで、陽光を反射し輝いているのでしょう。この日は次第に強まる雨が水面に無数の細かい線を描きだし、山の緑が溶け出したような色をしています。聞こえてくるのは池に打ち付ける雨音だけです。
明神岳の麓に水を湛える明神池は、明神岳の伏流水によって出来た池で一之池と二之池があります。かつては三之池もあったようです。二之池の西から細い流れとなって、梓川に流入しています。まさに明神岳と共にいまも生き続けている池です。
一之池から山に向かって桟橋が突きだしています。山を正面に仰ぐこの場所に立つと、明神の自然の力を一身に浴びたように、身が清められる思いがします。パワースポットとして人気らしく、いつもは列をなして順番を待つほどのようですが、本降りの雨のおかげか、ほとんど人の姿はありません。心からの祈りを捧げ、桟橋から池畔に戻ったとき、急に山がざわめき、風が山を駆けるように吹き降りてきました。風はそのままの勢いで池に舞い降りると、水面を大きな手でさっと撫で、漣を立てて池畔に立つ私たちの方に迫ってきました。山から池に、何かが降臨したような神秘的な光景。神を感じた瞬間でした。
ちなみに二之池の方は大きな石が配されどこか日本庭園風で、一之池とはだいぶ印象が異なりました。
一之池に赤い舟が二艘見えますが、これは毎年十月に山の恵みへの感謝と登山の安全を祈願する例祭の中で行われる御舟神事で用いられるもので、神事では舟に龍頭鷁首を付け、雅楽の調べに乗って池を一周するそうです。北アルプスの自然の中では少しそぐわない光景にも思えますが、龍頭鷁首や雅楽は神事に華やぎをもたらすものとして後から加わっていったものかもしれません。大事なのは舟を用いた神事ということ。穂高に降臨された神様は穂高見命ですが、この神様は海神である綿津見三神の子とされる宇都志日金拆命のことです。綿津見三神は、伊邪那岐命が黄泉国から戻り禊ぎをした際に生まれた神々で、住吉大社の御祭神である三神もこのとき一緒に生まれています。『古事記』によれば、綿津見の子にあたる宇都志日金拆命を祖とするのが阿曇連です。阿曇氏は後に安曇氏と記されるようになりますが、両者は表記が異なるだけで同一です。
安曇氏はこのようにルーツは海にあり、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積といった地名と共に各地にその足跡を残しています。琵琶湖北西の安曇川もそうですが、沿岸部や川沿いばかりとは限らず内陸部にもその足跡は見られます。その代表が長野県の安曇野です。太古の昔、そこは湖だったようで、おそらく安曇氏は川づたいに安曇野に入ったのでしょう。穂高に穂高見命が降臨したという伝承は、安曇族がこの地に入ったことを伝えているのではないでしょうか。奥宮で行われる御舟神事は、海神を祖とし海を渡り歩く祖先の記憶が再現されているように思います。穂高神社の本宮(里宮)は、奥宮から北東に二十キロほどの安曇野市穂高にあります。主祭神は穂高見命で、左殿に綿津見命、右殿に瓊瓊杵尊をお祀りする信濃国三宮で、立派な社殿を持つ神社ですが、こちらでも毎年九月に御舟祭が行われます。舟の形をした巨大な山車が町内を曳行後、神社に奉納されるというものです。いま安曇野というと、海から遠く離れた信州の高原としか思えませんが、太古の昔切り開いた安曇氏の記憶や海との関わりが神事において伝承され続けています。
奥穂高岳の山頂には峯宮があります。標高三一九〇メートルの山に登ることは到底不可能なので、私にとってはここが穂高の神様に最も近づくことのできる場所です。山に向かい熱心に手を合わせた直後目にしたあの光景はいまも忘れることができません。偶然の出来事と言ってしまえばそれまでですが、自然の偶然に巡り会うことが神秘です。そこに神聖を感じる心が、古来日本人の中に宿り続けている神なのではないでしょうか。ここは立派な社殿はなく、剥き出しの山に向かって手を合わせることになります。これほど直接的に自然の神に祈りを捧げたことはなかったように思います。またその力の大きさをこれほどまでに感じたこともありません。
奥宮の手前に、嘉門次小屋があります。嘉門次とは明治時代ここに小屋を建てて暮らしていた上条嘉門次のこと。ウェストンが上高地に入った際、岳沢から奥穂高までの道を案内したのが嘉門次でした。夏は川でイワナを、冬は山でクマやカモシカを獲って生活していた山人です。嘉門次小屋は当時と同じ場所で宿泊と食事を提供する山小屋として今も続いています。囲炉裏で焼いたイワナが絶品というので、参拝の後いただきました。頭から尾っぽまで丸ごと食べることができます。嘉門次が暮らしていた時代を思いながら、雨の中歩き疲れた体を休めました。
食事を終えて小屋を出ると、木立に猿の群れが。猿は昔から山の神あるいは神の使いと考えられてきました。いまこれを神の使いと思う人はいませんが、奥宮での出来事を思うと、また我が物顔で鳥居の上を闊歩する姿を見ると、やはりそうなのではないかと思わなくもありません。