明日から七月、半月後には郡上八幡で郡上踊りが始まります。九月上旬まで三十夜以上にわたり町中の至るところで盆踊りが繰り広げられ、町が踊り一色になります。最も盛り上がるのは八月十三日から十六日までの盂蘭盆会の時期で、夜通し踊りが続きます。見ているだけではつまらない、踊ってこそ楽しめるのが郡上踊りです。誰でも参加できるとあって一夏で全国から三十万人もの人が郡上八幡を訪れるそうで、写真や映像で見ただけでも楽しそうな雰囲気や熱気が伝わってきます。江戸時代に初代藩主遠藤慶隆が士農工商の融和をはかり踊りの期間中は平穏な気持ちで過ごせるようにと踊りを奨励したことに始まると言われます。他の説もありますが、いずれにしても江戸時代からのようです。夜通し町を埋めつくすように踊り続ける醍醐味は体験してこそ。他方で、郡上八幡は水の町としても知られています。町の人たちが水路の水を共同で管理、利用している様子を数年前にテレビ番組で目にし、琵琶湖北西の高島市針江と同じような暮らしがここにもあると知り、郡上八幡への興味が募りました。
郡上八幡を訪れたのは五月の中旬、初夏のような陽気の日でした。踊りの準備にはまだ早く町は閑散としていましたが、静かな町のあちらこちらで目にする水の流れが涼を呼んでくれました。
岐阜県北部の大日ヶ岳に発した長良川は、県の中央付近を縦断し伊勢湾に注ぐ木曽三川の一つです。その長良川が奥美濃の山から流れ下る吉田川と合流する川の交差点のようなところに郡上八幡はあります。場所は中農地域と呼ばれる岐阜県の中央部。山を削るようにして川が流れ、その周囲に出来たわずかな平地に町が形成されています。
郡上八幡で最初に目にしたのは新橋からのこの吉田川でした。川にせり出すように岩壁ぎりぎりのところまで建物が建ち並び、階段から川に下りられるようになっています。この川が郡上八幡の町の中心を流れていますので、いわばこの町のシンボルです。上高地の梓川の記憶が鮮明に残っていましたが、吉田川の水も透明度が高く引けを取りません。夏になるとこの橋から子供たちが川に飛び込む光景が見られるそうです。写真上は下流方向、下は上流方向の眺めです。
吉田川の左岸に昭和十一年築の役場旧庁舎があります。現在は観光案内所になっていますが、その建物に沿って南側の道を行くと、「いがわ小径」と呼ばれる用水路沿いの小径に出ます。ここに郡上八幡ならではの水の風景がありました。
吉田川に架かる八幡大橋付近から取り込んだ川の水が、島谷用水として吉田川に並行し路地裏を流れています。いがわ小径はこの用水路沿いの道で長さは十九メートル、人とすれ違うのがやっとという程度の、まさに小径です。
この水はここで暮らす人たちの生活用水です。組合を作って共同で管理し、野菜を洗ったり、夏場はスイカを冷やしたりと日々の暮らしに使っています。
いがわ小径を歩いていると、用水路に数カ所こうした小屋のようなものがあります。「かわど」と呼ばれる共同の水使用場です。
掃除当番が決められ、定期的に清掃されているので、用水路にはゴミ一つ見当たりません。水をきれいに保つための努力を郡上八幡の人たちは厭わないようです。滋賀県高島市にある針江にも、「かばた」と呼ばれる水利用のシステムがあります。以前各家庭に設けられた「かばた」を見せていただき、水を大切に守る暮らしに感じ入りましたが、郡上八幡では各家庭の利用に加えこのように共同利用のシステムが出来ています。
鯉も水をきれいにしてくれるのに一役買っています。
いがわ小径を戻り、そのまま新町通りを西へ。しばらく歩いていると、左手にまた水路のある小径が。「やなか水のこみち」です。石畳に柳、板塀の家が情緒豊かな雰囲気を醸しています。
「やなか水のこみち」は生活用水の水というより、町の景観を潤す役目のようですが、町中にこうした水の風景があるだけで一息つくことができます。ちなみに石畳に使われている玉石は長良川や吉田川の石とのことなので、この用水路は川を見立てているのでしょうか。
宮ヶ瀬橋を渡り、吉田川の右岸(北)へ。
三つ目の水の風景を見に、本町通りから脇に入ります。
この細い石畳の道を下ったところに、宗祇水と呼ばれる湧水があります。
宗祇水の宗祇は、室町時代の連歌師宗祇に由来します。宗祇は優れた歌人でもあった篠脇城主の東常縁に教えを請い、三年にわたり古今和歌集の解釈を伝授されました。文明三年(一四七一)、都へ戻る宗祇を常縁はこの湧き水のところまで見送り、次のようなはなむねの歌を送っています。
もみじ葉の流るる竜田白雲の花のみよしの思ひ忘るな
それを受け、宗祇が返した歌は
三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな
その故事にちなんでこの湧水は宗祇水と名付けられ、江戸時代には郡上藩主らによって泉の保存のために水場が整備されたとのことです。
水源には祠が建てられ、中に白雲水(宗祇水の別名)と刻まれた石碑が見えます。岐阜県の史跡、名水百選の第一号です。もちろんここも町の人たちによって管理、使用されています。水源に近いところから、飲料水、米等洗い場、野菜等洗い場、さらし場(桶などを浸けておく)に分けられ、水を汚さない工夫がなされています。こうした段階的な水の利用場は水舟と呼ばれ、各家庭にもあるようです。今回個人宅のそうした様子を見る機会がありませんでしたが、滋賀県高島市の針江と非常によく似ているのではと思います。
郡上踊りの期間中の八月二十日には、ここで宗祇の遺徳を偲び宗祇水神祭が行われるそうです。
宗祇水は小駄良川は吉田川の支流小駄良川沿いにあります。この川も郡上八幡の水の風景を彩る一つです。
清水橋という赤い橋から川を眺めていたら、ゴールデンが水遊びを始めました。飼い主さんがおもちゃを投げると、それを取りに夢中で泳ぎ、戻ってくるとまた投げてもらって泳ぎ…を延々と繰り返しています。楽しさが全身から溢れていて、見ているだけで笑顔になります。
郡上八幡ではこうした水の風景に眼が留まりました、町のあちらこちらを流れる水路は承応元年(一六五二)の大火を機に整備されたものです。郡上八幡は郡上八幡城の城下町として家々が建ち並んでいました。それが承応の大火で吉田川北側の北町と呼ばれる一帯が全焼してしまい、時の城主遠藤常友により四年の歳月をかけ防火用の水路が整備されました。ところが大正八年(一九一九)にも北町に大火があり、六百戸近くが焼けてしまいます。住民たちは水路を再整備し、より防火意識を高めたそうです。今もいざという時には家の前を流れる水路の水をすぐに使えるよう、各家々の軒先に防火用のバケツが吊されています。
以前の地割りを継承したところに切妻平入りの二階建ての町屋が建ち並び、通りには水路が張り巡らされているこの景観が郡上八幡の歴史を伝えていることから、吉田川の北一帯が二〇一二年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。静かな通りを歩いていると、水の流れる音が聞こえてきます。ここにいると、水との距離がぐっと近く感じられます。
豊かな水量を誇る長良川や吉田川のおかげで、水があることを当たり前に思ってしまいそうなところ、郡上八幡の人たちは有りがたい自然の恵みとして大切に使っています。水への感謝と謙虚な気持ちが住民間の繋がりや日々の暮らしばかりか自然環境の保護において好循環を生んでいるようです。