近江の取材をしていた頃、琵琶湖南西の坂本によく足を運びました。京阪電車に揺られ終点の坂本比叡山口で降りると、目の前には石垣の美しい坂本の町並みが続いています。比叡山延暦寺の門前町として発展してきた坂本は、近世になると比叡山上で厳しい修行を終えた老僧たちの隠棲地になりました。それらは里坊と呼ばれ、お寺ではありますが余生にふさわしい優美な庭園を持ち、穏やかな気品を湛えています。坂本の町を特徴づける石垣はそうした里坊のもので、穴太衆という石積み集団によって築かれていますが、自然石を巧みに積み上げることで見た目が柔らかく美しいばかりか、堅牢さも兼ね備え、その技術は戦国時代から高く評価されてきました。信長の安土城をはじめ多くの城郭にも穴太衆の技術が用いられています。坂本のすぐ南に穴太という地名が残っているように、このあたりは穴太衆の本拠地でした。その足跡を辿るだけでも魅力の多いところですが、比叡山や日吉大社との関わりにおいても歴史の宝庫です。それらに惹かれ自分なりにあちらこちら訪ねたつもりでいましたが、まだ一度も行ったことのない場所がありました。それが今回訪ねた西教寺です。
西教寺は日吉大社から一キロほど北にあり、里坊の町並みからは少し離れています。天台真盛宗という天台宗一派の総本山で、いくつものお堂を擁する大寺院ですから、行きそびれていたのが不思議な気もしますが、坂本の町から徒歩で行くには少し遠いので後回しになっていたのが、いつの間にか行ったように思い込んでいたということかもしれません。それはともかく今回訪ねるにあたり地図に目をやったところ、西教寺から北に延びる細い道をうねうねと上がっていくと、飯室谷に至ることに気づきました。飯室谷は、比叡山三塔の一つ横川から少し下ったところに位置し、横川と同じく最澄の弟子慈覚大師円仁が開いたと伝わります。少し距離はありますが横川の範囲です。そういう飯室谷には延暦寺五大堂の一つに数えられる不動堂があり、比叡山三大魔所の一つとしてとりわけ神聖な場所とされてきました。ちなみに横川には円仁の後には良源が入り再興、その後源信が引き継いでいますが、良源は横川で初めて称名念仏を行ったとされ、その教えをうけた源信もまた横川で念仏三昧の日々を送ったように、横川は念仏の聖地でした。
西教寺は比叡山の麓にあるお寺ではありますが、こうした位置関係から横川や飯室谷へと下る信仰の流れの中にあり、里坊とは異なる歴史を持っています。古い時代については不明な点も多いようですが、念仏の聖地となってから、歴史的人物との深い縁も生まれています。
湖西道路を滋賀里ランプで下り、穴太の町を抜け、日吉大社の前を通って北に車を走らせると、程なく西教寺の総門が見えてきます。堂々としたこの門は、坂本城の遺構と伝わります。坂本城は西教寺から南東に三キロほどの湖岸に明智光秀が築いた水城で、光秀亡き後程なくして廃城になり、遺構もほとんど残っていませんが、つい最近本丸推定域で石垣の基底石が発見されたようです。ルイス・フロイスが「豪壮華麗で安土城に次いで有名な城」と記した坂本城の当時の姿を知るのに、この発見は大きな一歩ですが、遺構が少なく幻の城と言われている坂本城の遺構が西教寺にあるということで、戦国時代の名残が感じられそうです。実際、光秀は西教寺に大きく関係しているのですが、それについては後で触れることにして、早速境内へ。
参道は西に連なる比叡の山に向かって緩やかに傾斜し、両側には塔頭が建ち並んでいます。
新緑が鮮やかな参道。五月ならではの景色ですが、一月早い頃には桜、秋は紅葉と、季節ごとに参道の色が変わるので、いつ訪れても目を楽しませてくれそうです。すぐ左に見えてくるのは禅智坊、その向かいには禅明坊、さらに進むと聞證坊、徳乗坊と、六つの塔頭が並んでいます。国の登録有形文化財に指定された門を持つ塔頭もありますが、六つの塔頭は同程度の規模で統一感があります。
参道の突き当たりには勅使門、本堂や本坊など主要伽藍はその奥の高くなったところにありますが、そちらに行く前に勅使門の向かって左手(南)に建つ宗祖大師殿宗祖へ。
宗祖大師堂の宗祖とは天台真盛宗の宗祖、真盛のことです。室町時代の嘉吉三年(一四四三)伊勢の生まれで、紀貫之の末裔と伝わり幼名を宝珠丸といいました。十四歳で出家し名を真盛に改め、十九歳で比叡山に入り西塔の慶秀に師事、天台教学の研鑽を積み異例の出世をしますが、母の死をきっかけに黒谷の青龍寺(西塔の北)に隠棲し、比叡山横川の源信が著した『往生要集』に依り念仏を重視、称名念仏(仏の名を唱え心に仏を念ずる)と戒律の一致を唱えるようになりました。
そのような真盛が西教寺に入ったのは文明十八年(一四八六)で、荒廃していた堂塔を再興し不断念仏の道場にし、朝廷から庶民まで多くの人々に念仏の教えを広めながら入寂するまでの十年あまりを西教寺で過ごしています。
宗祖大師殿が造られたのは明治十一年(一八七八)年のことです。真盛によって再興されて以降、西教寺は念仏と戒律を重視する天台宗の一派として存続してきましたが、明治に入り天台真盛宗として独立を許されたのです。真盛が入寺してから四百年近くを経てようやく真盛上人の像をお祀りするにふさわしいお堂が建てられました。
石段を上がると、銀色に輝く塔頭の屋根の向こうに琵琶湖が拡がっています。対岸に見える秀麗な山は近江富士とも呼ばれる三上山。この辺りの琵琶湖は対岸までの距離が短いため、三上山は手を伸ばせば届きそうです。
琵琶湖の風景を眼下に見下ろすように東を向いて建っているのがこちらの唐門です。(冒頭の写真も唐門です)一間一戸の四脚門で、屋根は檜皮葺き、唐破風が付いた堂々とした門です。造られたのは大正時代とお寺の長い歴史においてはかなり新しいものですが、百年以上の歳月は風格をもたらすのに十分のようです。
唐門の脇の築地塀の屋根に猿がいます。猿といえば坂本の日吉大社では猿を神の使いとしてお祀りしています。日吉大社は比叡山延暦寺と深い関わりを持つお社です。この屋根に置かれた猿も、守り神としての意味を持つのでしょう。
唐門にもさまざまな生き物が彫刻されています。おもしろいのは虹梁と呼ばれる梁に彫刻された迫力ある龍や獅子で、目をこらすと上には麒麟もいます。麒麟も中国の神話に登場する伝説上の生き物で、頭部は龍、胴体には鱗があり、牛の尾と馬の蹄を持っています。麒麟も神聖な生き物で泰平の世の象徴とされていましたので、この門にはさまざまな願いが込められています。
上が宗祖大師殿。堂内は拝観できませんが、格式高い意匠が施され、真盛上人を中心に、最澄をはじめ縁の高僧がお祀りされています。西教寺の長い歴史の中では新しい一画ですが、一つのお寺のような凝縮された空間で、真盛上人に対する敬意が感じられます。唐門越しに琵琶湖を望むこの位置にお堂を建てたのも、敬意の顕れのように思えます。
宗祖大師殿を後に、本堂へ。
比叡の山に入っていくように急な石段を上がると、まず目に飛び込んでくるのはこれらの萬日供養塔です。
西教寺に入った真盛上人はここを不断念仏の道場とされ、釈尊入滅後五十六億七千万年後に下生し衆生を救済してくださるまで、念仏を唱え続けようという大誓願を打ち立てられ、上人亡き後もその意志が引き継がれ、滅後一万日ごとに法会が営まれ続けています。一万日ごとの記念に供養塔が建てられ、いま「十九萬日供養塔」まで来ています。二〇二一年が本来の十九万日だったところコロナ禍により法会は翌年に延期されたそうですが、一万日は二十七年四ヶ月ほどですから、十九万日となると五百二十年になります。真盛上人の意志をこれだけ長きに渡って受け継いできたのは、真盛上人の信仰の強さはもちろんですが、その思いを絶やさず継続できる後世の人たちの思いもあってこそ。比叡山の麓に根付いた信仰の強さ、深さに感じ入ります。


























