古社寺風景

三室戸寺

京都で花の寺というと先日投稿した勝持寺を指しますし、関西で花の寺というと「関西花の寺二十五霊場」を思います。勝持寺が花の寺と呼ばれるようになったのは、境内に百本近い桜があり、そこから西行との繋がりを連想させるためで、この場合の花は桜です。「関西花の寺二十五霊場」は二十六年前に宗派を超えたお寺が寄り集まり、花を媒介としてお寺との縁を持ってもらいたいと作られたもので、この場合の花は桜に限りません。季節ごと、各寺院さまざまな花が咲き競うので、時期をずらしてお詣りしてほしいということでしょう。人を呼び込むための仕掛けというと語弊があるかもしれませんが、花の咲くところなら労苦をいとわず足を延ばせるということもこともありますから、これによって今まで知られていなかったお寺に参拝者が増えるのはいいことではないでしょうか。そもそも、厳しい自然の中を耐え抜き美しく咲く花は、修行の末に悟りを開くという仏教の考えと重ね合わせられるように、仏教と花の結びつきは深いのですから。

今回取り上げる三室戸寺は西国三十三観音霊場の十番札所として知られますが、ここもまた四季折々様々な花で境内が彩られる花の寺です。冬は水仙、梅、椿、馬酔木。春は桜に躑躅。初夏は紫陽花、そして蓮。秋は秋明菊に紅葉。いつ行っても自然の彩りが褪せることなく、何らかの花が出迎えてくれる場所というのは、意外とありそうでないものです。

私が訪れたのは躑躅の季節。まずは山裾の地形を生かした境内の斜面を埋めつくす、満開の躑躅の様子をご覧ください。

西国三十三所は日本で最も歴史のある巡礼行と言われています。伝承では養老二年(七一八)大和国の長谷寺を開いた徳道上人が始め、上人亡きあと廃れていたところ、およそ二七〇年後に花山法皇が再興したということですが、二十番札所の善峯寺の開基は法皇が亡くなった後であることなどから、実際には平安時代後期の十一世紀前半ごろに成立したのではないかと専門家の間では考えられているようです。とはいえ、伝承の力というのはなかなかなもので、昭和六十二年(一九八七)には中興千年の記念事業が各寺院で行われました。三室戸寺はそのとき庭園の整備を行い、五千坪に及ぶ広大な庭園が生まれました。

躑躅が植えられたのはその後のことですので、三室戸寺の歴史から見るとごく最近のことですが、傾斜地を埋めつくす躑躅は二万株とも言われ、関西のお寺では最多だそうです。

三室戸寺の躑躅はほとんどが平戸躑躅で、背丈を超えるほどに成長した木々に、濃いピンク、薄いピンク、白の大ぶりの花が隙間なく咲いており、花の生気に圧倒されます。この日は初夏を思わせる強い日ざしが躑躅に降り注いでいましたが、躑躅にはそれに引けを取らない強さが漲っていました。花の咲く期間が長いのも、この花の強さの一面でしょう。

そういえば花の名前に足偏のつくものは他には思い当たりません。躑も躅も、どちらも立ち止まるとか足踏みするという意味で、圧倒的な美しさに思わず立ち止まることからつけられたという説もありますし、他方で躑躅には毒があり、それを食べた羊が躑躅てきちょくして命を落とすとも言われます。正式な由来についてはわかりかねますが、私にとって躑躅というのは美しさ以上に力強さを感じる花で、三室戸寺の躑躅のように背丈をはるかに超えるほどになると、その大きな木々は大地とがっぷり四つになって根を張っていて、それがまさに大地を踏みならす躑躅てきちょくを思わせます。

 

さて躑躅の庭を堪能した後は、途中石庭を経て本堂へと向かいます。

三室戸寺の山号は明星山で、それは本堂後ろ(東)の標高二百メートルほどの山を指します。いまでこそこのように整備されていますが、かつての山は鬱蒼としており、その中腹にある三室戸寺も木々に覆われ薄暗かったといいます。山頂には磐座があったようですので、古代そこは神聖な祈りの場で、山に手を入れることもなかったのでしょう。

 

寺伝によれば、三室戸寺は宝亀元年(七七〇)に光仁天皇の勅願で大安寺の行表によって開かれたとのことで、当初は御室戸寺だったそうです。

表記はどうあれ、奈良県桜井市にある三輪山が御諸山とも呼ばれるように、「みむろ(みもろ)」は神の降臨する神聖な山のことですから、おそらく三室戸寺の「みむろ」もそれに由来するのでしょうが、御室を貴人の邸宅と解釈し、次ような伝説も生まれました。一つはここに光仁天皇の離宮があり、その後花山天皇、白河天皇もそれを受け継いだことから三室になったというもの。もう一つは『日本書紀』に仁徳天皇の異母弟である菟道稚郎子うじのわきいらつこ菟道宮うじのみやを営んだと記されていることに由来を求めるもので、比定地は宇治神社だという説もありますが、菟道を広く捉えれば三室戸寺のある辺りも含まれるということです。

現代人の感覚ですと、宇治は京都の南はずれに位置しているように思いますが、古代における宇治は宇治川によって難波、大和、山城といった地域と密接に結びついた交通の要衝でした。交通の要衝ということは政治的にも重要な場所だったということで、仁徳天皇と皇位を争ったと伝わる菟道稚郎子が当地と繋がりがあったというのは当然考え得ることです。

三室戸寺は光仁天皇の息子にあたる桓武天皇により千手観音菩薩を賜り、以後歴代天皇から都鎮護の寺として崇敬されてきましたが、寛正年間(一四六〇~六六)に火災で伽藍を焼失、その後再興するも、信長によって再度焼かれます。幾多の苦難を乗り越え、江戸時代後期になってようやく再建がかなったそうです。

写真左下の本堂に秘仏の千手観音像がお祀りされています。写真右下の三重塔は兵庫県の高蔵寺にあったものを明治になってから当地へ移築したもので、建立は元禄十七年(一七〇四)です。

  

 

三室戸寺の住所は宇治市菟道です。菟道は「とどう」と読まれるのでぴんとこないところもありますが、菟道は宇治の古名です。では「うじ」とは何でしょうか。一説には「うじ」は「うち」、つまり北、東、南には山、西は巨椋池に囲まれた内側にあることを指した地名であるといいますし、別の説では「う」は「良い」という肯定の意味、「じ」は「道、路」、つまり良い道ということから来ているといいます。どれが正しいのかはわかりませんが、こうした説から古代の宇治を思い浮かべるのは楽しいものです。

また菟道ということでは、三室戸寺の由来のところで菟道稚郎子の話が出ました。これはどういうことかと考えると、母親である矢河枝比売やかわえひめが木幡村(現・宇治市木幡)の豪族和邇氏の娘で、菟道稚郎子は母親の住まいかその近辺で育った可能性があり、そこから菟道という名を冠したということでしょう。

菟道稚郎子は仁徳天皇に皇位を譲った後亡くなり(『古事記』では早世、『日本書紀』では自ら命を絶ったと記されています)、『日本書紀』によると死後仁徳天皇によって「菟道の山の上」に葬られたとあります。三室戸寺の西およそ一キロ半の、宇治川右岸に近い低い丘(写真下)がその陵墓とされています。

  

躑躅に惹かれて訪ねた三室戸寺から話が逸れ、菟道稚郎子のことになりましたが、こうした関心の寄り道こそ歴史散策の醍醐味ではないでしょうか。今度は菟道稚郎子にゆかりある土地としての宇治を歩いてみるつもりです。

 

 

 

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