古社寺風景

天野山金剛寺

去年の四月、国宝の如意輪観音を拝観したく観心寺に足を延ばしました。こちらのブログにも書きましたので、関心のある方はご覧いただけたらと思いますが、実はそのとき、同じ河内長野に金剛寺というお寺があり、そこでもちょうどいま国宝の三尊仏が公開されていると教えられました。

観心寺の如意輪観音像は秘仏で、毎年四月の十七日と十八日の二日だけご開帳になるというので、それに合わせて行ったのですが、近くに金剛寺というお寺があり、そこにも国宝仏があるというのは初耳でした。金剛寺の三尊仏というのは、金堂にお祀りされている大日如来坐像と不動明王坐像、降三世明王坐像の三体で、不動明王は快慶の高弟行快の作です。国宝に指定されたのは一昨年(二〇一七)のことで、通常は格子越しに拝観するのが、四月の十四日から十八日の四日間は格子がはずされ、より身近に拝観できるのだそうです。

観心寺も金剛寺も交通の便がよいとは言えないところにありますので、特別公開の時だけ二つのお寺を結ぶ無料のシャトルバスが出ているということでしたが、観心寺の拝観で満腹になっていたこともあり、その日は観心寺だけで帰ってきました。

けれども、そのとき手に入れたチラシに載っていた金剛寺の楼門の雄大なたたずまいは、言わずとこのお寺の規模を知らしめ、三体が揃うまでに五十年の歳月を要したという国宝三尊仏を抱く奥河内の古刹への憧憬は日増しに強くなっていきました。

金剛寺への関心が強まる、もう一つのきっかけがありました。家に戻り金剛寺のことを調べていると、日月四季山水図という六曲一双の国宝の屏風が金剛寺のものだとわかったのです。この屏風、作者は不詳ですが、そそり立った山々の向こうに黄金の太陽が照り輝く右雙、波濤の向こうで折り重なる雪山を銀色の月が静かに照らす左雙、どちらも大胆な構図が目を惹くばかりか、そこに描かれた四季の移ろいは、悠久の時間の流れを感じさせるスケールの大きな作品です。白洲正子さんの『かくれ里』でその存在を知ってはいたものの、それがこの河内長野の金剛寺のものとはすぐに思い至らなかった。それが朱色の楼門や国宝の三尊仏を持つ金剛寺にある。未知だと思っていたお寺が、日月四季山水図によってぐっと手前に引き寄せられた感じで、これは是が非にでも訪れなければという気持ちになりました。

とはいえ、思い立ってすぐに行けるような場所ではないということもあり、半年、一年と時間が過ぎました。その間、父をめぐりさまざまなことが起きました。父は二月に旅立ち、その直後から私は父の永遠の旅を支え後押しすべく、此岸でいくつかの用事をこなしてきました。用事はまだ続きますが、先月の初め、最重要課題だったことが大きく前進したこともあって、私の心は多少軽くなりました。心が軽くなると、足も軽くなります。遠くて尻込みしていた金剛寺も、そんな経緯を経て、ようやく行くことができました。日月四季山水図は現在は拝観できませんが、十一月の公開日に再訪すればいいのであって、今はとにかく金剛寺を訪れたい。そんな思いで、三十五度を超える酷暑の中、奥河内に車を走らせました。

 

大阪と和歌山の境界をなす和泉山脈の北麓を河泉丘陵地帯と言います。その丘陵を形成する山の一つに、標高三百メートルに満たない天野山があり、そこから天野川という川が北に向かって流れています。天野川はやがて日本最古の溜め池、狭山池に注ぎますが、金剛寺があるのはこの川の上流で、川に沿って中心伽藍や本坊などが建ち並んでいます。

私は先ほど交通の便が必ずしもよくないとか、思い立ってすぐに行けるような場所ではないと書きました。それは私が暮らしている場所との位置関係から来る感覚であるのと同時に、梅田や難波を大阪の中心と捉える現代の感覚に即した見方なので、これからこのお寺のことを書くにあたり、一端その考えをリセットしなければいけません。

結論から言いますと、金剛寺は各地へと通じる交通の要衝といえる場所にありました。厳密にはすぐ近くにある河内長野が交通網の要だったのですが、具体的に見ていきますと、京都の石清水八幡宮と高野山を結ぶ東高野街道は、大阪の堺から来る西高野街道と河内長野で合流し、一路高野山へと延びています。また河内長野から南東方向へ延びる大沢街道は、河合寺や観心寺を経て五條へと向かいますが、金剛山の麓にあって楠木氏の拠点だった千早赤阪村にも通じています。五條から吉野川沿いに東に行けば吉野です。つまり河内長野をすぐ近くに控えた金剛寺は、平安京のあった京都、商業の中心地だった堺、信仰の聖地高野山、南朝の最重要拠点吉野といった場所に通じていながら、そこは標高のそれほど高くない山中という立地です。金剛寺が経てきた歴史は、地勢と不可分です。

 

金剛寺の歴史を振り返ってみますと、創建は奈良時代、聖武天皇の勅願で行基によって開かれ、平安時代には弘法大師空海が修行を行ったと伝わるも、平安時代も後半になると荒廃してしまいます。その後後白河上皇に帰依・庇護を受けた高野山の阿観上人によって再興されます。後白河上皇の妹・八条院は当時の皇室領の中核をなす広大な荘園(八条院領)を持っており、金剛寺もそれに属していました。それもあってか八条院の侍女が阿観上人の弟子となり、第二代住職になると、女性の参詣を受け入れる女人高野としても発展します。

そうした中、金剛寺が日本の歴史の表に表れるのは、建武の新政から南北朝の時代にかけてです。

後醍醐天皇の次に践祚せんそした後村上天皇は五條の賀名生あのうを拠点にしていましたが、度重なる内紛(観応の擾乱)で幕府が弱体した隙を狙い、北朝の崇光天皇を廃位し、三種の神器を接収、皇太子直仁親王も廃太子とし、京都の回復を目指します。その過程で、正平九年(一三五四)北朝の三院(光厳、光明、崇光)と直仁親王を拉致するという強行に及ぶのですが、その際金剛寺が一時幽閉先になったのです。

同時に後村上天皇自らも金剛寺に行宮あんぐうを定めたので、北朝の三院と廃太子が京都に帰されるまでの三年間は、金剛寺に南北両朝が同居していたことになります。

後村上天皇が賀名生から金剛寺に移ったのは、一つに金剛寺が八条院領に属しており、後で触れるように後醍醐天皇と縁の深い文観もんかんという僧の弟子が学頭を務める寺だったこと、また天野山の麓に南朝の勢力となる土豪がいたことなどが理由のようですが、山深い賀名生より交通の便利な金剛寺にいたほうが有利ということもあったかもしれません。

それはともかく、北朝三上皇と廃太子の拉致は、南北両朝にダメージをもたらしました。北朝と幕府は光厳上皇の第三皇子で仏門に入る予定だった弥仁いやひと王を異例の方法で強行的に践祚させますが(後光厳天皇)、これは天皇の権威を弱め、ひいては幕府の権威も弱めることになりましたし、南朝にとっては南北合体や幕府と手を合わせる可能性を自らなくしてしまったことになります。

写真上が北朝御座所だった観蔵院(登録有形文化財)。写真下が南朝御座所の摩尼院(重要文化財)。

摩尼院は塔頭の一つで通常公開されていません。後村上天皇が実際政務を行っていたのは、塀一つ隔てたところにある食堂じきどう(重要文化財 写真下)で、そちらが正庁とされています。

 

後村上天皇は正平十四年(一三五九)には近くの観心寺に移っていますので、金剛寺に行宮が置かれていた期間は五年ということになります。五十六年続いた南朝のうち、吉野に行宮があったのは二十年弱で、それに比べると金剛寺の五年は決して長くはありませんが、その間同じ境内に北朝と同居していたということでは、他にはなかった時間です。南朝支持の金剛寺といえども、人質である北朝の四名を粗末に扱うことはできません。南北両方の要人を支えるための金剛寺の負担は相当なものだったらしく、山の木を切ってお金に換えるなどして、なんとか支えきったといいます。

そもそも金剛寺と南朝勢力との結びつきは、後醍醐天皇の時代からありましたが、その間を取り持ったのが真言僧であり律僧でもあり、後醍醐天皇の側近として活躍した文観(一二七八~一三五七)でした。金剛寺の禅恵ぜんねが文観の弟子だったのです。

後醍醐天皇と文観の接点は、元亨一年(一三二一)に他界した醍醐寺報恩院の道順の高弟ということで、元亨三年内裏に召された時でしょう。後醍醐天皇は密教僧だけでなく律僧でもあった文観に傾倒し重用、その後南北朝時代には文観の人脈が南朝に大きく貢献しています。

ちなみに文観は弘安元年(一二七八)播磨国の生まれで、十三歳のとき真言律宗の開祖叡尊ゆかりの寺で出家、その後醍醐寺報恩院の道順から灌頂(正統の継承者と認める儀式)を受け真言僧となりましたが、西大寺派と言われる叡尊の律宗は「戒律の功徳を説いて殺傷禁断を励行し、寺社の修造や、各種の公共事業、また「非人」救済などの実践的な社会活動をつうじて、貴賤上下の広汎な信仰を獲得」(兵藤裕己)したもので、その教えの下で律僧として活動していた文観は、さまざまな身分の人と接する機会を持っており、その中には楠木正成のような土豪たちとの接点もありましたから、後醍醐天皇にとってそうした文観の持つ幅広い人脈も魅力でした。

金剛寺とのことに話を戻しますと、建武二年(一三三五)建武の新政下で反旗を翻した足利尊氏の追討を命じられた新田義貞が敗れたとき、後醍醐天皇は文観を通じて金剛寺に仏舎利を奉納し、「天下太平国家長久」の祈りを捧げていますし、建武三年(一三三六)楠木正成が湊川の戦いに敗れ自害すると、その数ヶ月後に後醍醐天皇は金剛寺を勅願寺にしたように、後醍醐天皇と金剛寺の関係は密になっていきました。

後醍醐天皇は密教を熱心に学び、異なる流派から灌頂を受けたばかりか、天皇自らも密教修法をしたことで知られます。

在位中の天皇が自ら修法を行ったこと、またそこで行った聖天供は、聖天(密教の守護神で、象頭人身の男女二神が和合する姿をしていることから、性愛の神ともされる。歓喜天とも)を前に祈祷をささげるものであることから、網野嘉彦氏は後醍醐天皇に「異形性」を見出し話題になりました(『異形の王権』)。

天皇は神祇の最高祭祀者なので、在位中に密教を行うというのは確かに異形だったのですが、最近の研究では後醍醐天皇の密教信仰は父・後宇多天皇の信仰をそのまま受け継いだもので後醍醐天皇だけが密教に入れ込んでいたわけではないということや、聖天供というのは除災や富貴、子宝を祈る正統な修法だったということが言われています。

いずれにせよ、歴史のうねり、ねじれの中で、南朝と金剛寺は出会ったのです。

 

歴史はこの辺にして、境内の様子に移りましょう。

冒頭の写真は本坊の客殿や持仏堂前に作られた室町時代の枯山水庭園です。受付を済ませ客殿前の廊下に出ると、目の前には一面の緑。枯山水とはいえ、背後の自然の樹木から庭のあちらこちらに配された中低木も含めて緑が圧倒的に強い印象を残します。

とくに目が留まったのは苔の海と持仏堂の後ろの樹木です。風が吹くとざわざわと音を立てて揺れるその様子は、日月四季山水図の風景を思わせます。もしかしたら、この風景を元に描かれたのではないかとさえ思ってしまいます。

客殿も持仏堂も江戸時代の再建ですが、奥河内の自然に溶け込み、風格が感じられます。

客殿から廊下を伝って奥(南)に進むと、見えてくるのが奥殿(観蔵院)、北朝の御座所が置かれていた建物です。

  

 

ここに幽閉されていたのは、北朝の三院(光厳、光明、崇光)と直仁親王。建物は再建ですが、こうしてその場に身を置くと、六百五十年ほどの時間や身分立場の隔たりが消え、どのような思いで日々ここで過ごしたのだろうかと、一人間としての感情に思いが及びます。

佐藤進一氏の『南北朝の動乱』に光厳天皇のことが書かれていますので、簡単にご紹介しましょう。

後伏見天皇の第一皇子として生まれた光厳上皇は、十四歳で両統迭立の取り決めにより後醍醐天皇の皇太子になります。その後後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、鎌倉幕府によって十九歳で皇位につき、六波羅探題に擁せられて関東に逃げようとするも、途中で六波羅探題が滅びたため帰京。その三年後、今度は足利尊氏にかつがれ院政をとるうち、勢いを盛り返してきた南朝に拉致され、軍勢と共に八幡、河内の東条、賀名生へと連れ回されたあげく、金剛寺へ幽閉されました。光厳上皇はある時期から夢窓疎石に帰依し出家していましたが、金剛寺でも孤峰覚明を尊信。京都に戻ってからは、世事に交わらず禅の修行に邁進、常照皇寺に隠棲し、そこで五十二年の生涯を閉じました。

持明院統の正嫡として生まれたために、自分の意志とは無関係に皇位争奪戦に巻き込まれることになった光厳上皇が、退位後信仰の道に入ったのは自然な流れでしょう。出家した身で金剛寺に連れてこられ、金剛寺では禅僧の元で過ごしたようですから、周囲で起きていることにはもう関心がなくなっていたかもしれません。塀一つ隔てたところに南朝の行宮があったとはいえ、最晩年の一切の俗と縁を切る心の準備がここでできたのなら、金剛寺での三年も多少は意味があったと言えるでしょうか。

 

天野川に沿った本坊の南に中心伽藍があります。写真下は楼門(重要文化財)。

  

迫力ある持国天と増長天は鎌倉時代の作で、重要文化財に指定されています。

楼門をくぐると右に南朝の行宮として使われた食堂、その奥の一段高くなったところに金堂と多宝塔、さらにその奥に五佛堂や御影堂、観月亭といった建物があり、金堂、多宝塔、食堂、御影堂、鐘楼はすべて重要文化財です。

観月堂(写真一番下)で後村上天皇が月見をされたそうです。

 

  

重要文化財に指定されている建物は平安時代から南北朝時代にかけてのもので、これまでに何度か改修されています。最近の改宗は金堂で、およそ九年の歳月をかけ昨年三百年ぶりの大改修を終えたところです。鮮やかな朱色を取り戻した金堂に入ると、そこにお祀りされているのが大日如来を中心に不動明王と降三世明王の三尊。去年観心寺でその存在を初めて知った、国宝の三尊像です。

特別公開時以外は格子越しに拝観することになりますが、それがかえって大切な仏像を密やかに拝観するような感じがして、印象が強まった感じがしています。誰もいない静かな堂内。光が射し込むのは途中までです。格子の奥は薄暗いのですが、そういう中で黄金の大日如来像が鎮座されています。光背まで入れると高さは六メートルほど。胸の前で左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で握る智拳印という印相で瞑想する表情は穏やかで慈悲深く、後背や衣紋の流れるような曲線は実に優美です。国宝の大日如来像というと、青年期の運慶による奈良の円成寺のものが有名です。円成寺のものは、後背のシンプルなデザインも含め、全体に若々しくすっきりとした感じがしますが、ここ金剛寺のものはとにかく美しさが際だっています。その美が金箔の輝きで増強されて、薄暗がりのお堂を照らしているのです。

大日如来像は金堂が建立された治承二年(一一七八)ごろに作られたと考えられているそうです。後白河上皇に帰依・庇護を受けた高野山の阿観上人によって再興された時代のことです。脇侍の不動明王像は快慶の弟子の行快の作と判明、降三世明王像も同じ頃に造られたのではと考えられていますが、そのとき未完成だった大日如来像の台座や光背も行快によって造られたのではないかとのこと。

金剛寺の三尊配置は円珍が中国からもたらした尊勝曼荼羅を立体化した珍しいものだそうです。尊勝曼荼羅とは、災害の消滅や利益の増加を祈願する尊勝法の御本尊として用いられる曼荼羅で、金剛寺が阿観によって再興された平安時代後期でも秘密の図とされていたものです。それを金剛寺が用いたというところに、密教寺院としての金剛寺の力が見て取れます。

最近の研究で足利尊氏や南朝に対する従来の考えを見直す動きがあります。たとえば内紛続きだった室町幕府に対し、南朝は一致団結し天皇に忠誠を誓っていたと言われていましたが、南朝内部も内紛にまみれていたとか、後醍醐天皇の目指した新政は特異で非現実的だったので崩壊したと言われていましたが、前時代からのやり方を踏襲していましたし、室町幕府は新政や南朝の訴訟制度や恩賞政策を取り入れていたという具合です。南朝ゆかりの土地に行くと、短命に散った南朝を感傷的に追慕する雰囲気がいまだに感じられますが、南・北・幕府いずれにも長短がありましたから、思い入れ、思い込みをはずしてこの時代を新たな気持ちで学び直す必要があるように思います。

後醍醐天皇に始まる南北朝時代は、政治、思想、文化を含めた日本の社会の一代転換点です。その大きなエネルギーを支えた土地の一つとして、奥河内は興味の尽きないところです。

 

 

最後に余談です。南北朝合一後、金剛寺は歴史の表舞台を離れ、自然に抱かれた静かな聖地に戻りますが、室町時代の終わり頃から僧坊酒の製造を始めます。いわゆる天野酒で、秀吉はたいそう好んだといいます。江戸時代の明暦年間に製造が中止されましたが、昭和四十六年(一九七一)に地元の酒屋さんが復活させました。金剛寺でも購入できますので、一度お試しください。

*秋の国宝特別公開は十一月一日~五日。日月四季山水図屏風も公開されます。

 

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