六~七世紀にかけて、朝鮮半島は百済、新羅、高句麗に鼎立、不安定な情勢でしたが、そうした中百済は倭国と親交を結び、義慈王の二人の皇子が倭国に送られます。一人は豐璋、もう一人は善光(禅広)、『日本書紀』によれば六三一年、『三国史記』には六五三年で、だいぶ開きがありますが、七世紀前半から半ば頃に百済国の皇子が倭国にやってきたことについては史実です。ところが百済が唐と新羅の連合軍に攻撃されたことから豐璋は百済に戻り、善光だけ倭国に留まります。結局百済は六六〇年に滅亡、その後百済復興をかけ倭国も加勢するも、六六三年に白村江の戦いで大敗を喫します。
倭国に留まることになった善光は難波に居住し、七世紀後半持統天皇の時代に百済王という氏族を賜与されます。奈良時代には百済王初代の善光から数えて四代目の敬福が朝廷に重用され、天平十五年(七四三)陸奥守に任命されるのですが、これはちょうど聖武天皇が大仏建立を発願した年です。東大寺の大仏建立といえば、鍍金のための金が足りず遣唐使を出して唐から調達することも考えられていたとき、陸奥で金が見つかり、ようやく完成させることができたということがありましたが、金の発見から採取、献上まで大いに貢献したのが陸奥守の敬福でした。『続日本紀』には敬福が天平二十一年(七四九)に黄金九百両を献上したことが記されています。おそらく敬福は渡来系の技術者集団を擁し、その力を結集して金を発見したのでしょう。
天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に黄金花咲く 『万葉集』巻十八 四〇九七
これは金発見に歓喜した大伴家持の歌です。
ちなみに石山寺縁起絵巻には、聖武天皇が良弁に吉野の金峯山で黄金産出の祈願をさせたところ、石山に行くようにという蔵王権現のお告げがあり、比良明神の化身である老人に導かれ石山の巨大な岩の上に如意輪観音を祀って草庵を建てると、その二年後に陸奥国から黄金が発見されたとあります。良弁の祈願によって金が見つかったという話は今昔物語や東大寺要録にも出ており、石山寺ではお寺の創建由来に結びつけて伝わっていますが、良弁も百済系と言われていますので、良弁もまた金の発見に何らかの関わりを持っていても不思議ではありません。
ところで百済王敬福は金発見の功績により、従三位宮内卿に昇進し、河内守にも任ぜられます。河内国は飛鳥以来、藤原京、平城京、長岡京、平安京いずれの時代の都にも隣接している上、大阪湾という海上交通との接点でもあったことから、河内に配されるのは中枢に近い人物でした。そこからも朝廷がいかに敬福に信頼を寄せていたかがわかります。
河内守に任命されたのを機に、敬福はじめ百済王氏一族は交野に移り住み、七五〇年頃氏寺として百済寺を建立しました。現在の地名では大阪府枚方市中宮西之町、一帯は交野ヶ原と呼ばれる台地で、淀川から東に一キロ半ほど、支流の天野川からは三百メートルの場所です。建物は焼失しましたが礎石が残っており、昭和七年(一九三二)に最初の発掘調査が行われ、昭和十六年(一九四一)に国の史跡に、さらに昭和二十七年(一九五二)には特別史跡に指定されました。
寺域はおよそ百四十メートル四方、東西に塔、金堂に回廊が取り付き寺域を囲い、金堂の奥には講堂、そのさらに奥には食堂があったようで、格式の高さがうかがえます。金堂に回廊が取り付く形式は新羅の感恩寺と同じ形式とのことです。
百済寺跡の西隣には、百済王氏の祖霊をお祀りする百済王神社があります。上の写真に見えるのが神社の建物です。いつごろの創建なのか詳しいことはわかりませんが、ここに百済寺が造られたのと同じ時代でしょう。
ちなみに、百済王氏が当地に移り住む前に居住していた難波にも百済寺があったと考えられ、堂ヶ芝廃寺(現在豊川稲荷大阪別院)が比定されています。またこの近くには百済尼寺もあり、細工谷遺跡が比定されています。どちらも現在の地名は大阪市天王寺区です。難波に百済寺と百済尼寺があったことから、河内の交野においても同様に百済寺と百済尼寺が築かれた可能性もありそうです。とするならここからそう遠くはない場所のはずで、地図を眺めながら空想をたくましくする楽しみをもらいました。