古社寺風景

伊居太神社(池田)

箕面の山麓沿いの道を西に進むと、程なくして池田市に入ります。池田市は猪名川の流れに沿うように南北に長い形をしていて、川を挟むと対岸は兵庫県になります。東隣の箕面市同様に北半分は山、それも一続きの山を共有しているような地形なので、箕面と池田はどことなく雰囲気が似ているように感じます。そんな池田のシンボルといえば五月山でしょう。五月山は北摂山系の南西端にある標高三百メートル少しの低山で、山のすぐ西には猪名川が流れています。現在山の麓は公園として整備されていて動物園もありますし、ドライブウェイからは見事な眺望が得られるとあって、憩いの場として人気の山で、今回取り上げる伊居太いけだ神社はこの五月山の南西麓に鎮座しています。

初めて伊居太神社を訪れたのは十年以上前のことです。動物園でアルパカやウォンバットなどを見た後公園内を歩いていると、塀越しに本殿の青銅の屋根が見え、引き寄せられるように近づいていくと、それが伊居太神社でした。その頃は今ほどの土地勘もなく、神社の存在など全く知らなかったので、こんなところにこのような歴史を感じさせる神社があるということにまず驚きましたし、隣接する動物園とは隔世の雰囲気を放つ神社の佇まいにも強く惹かれました。ただならぬ土地、漠然とですが、そんな印象を持ちました。後からわかったことですが、縄文から弥生時代にかけての遺物が参道周辺で見つかったそうです。

 

 

社殿は慶長九年(一六〇四)に豊臣秀頼によって再建されたとのこと。この神社の歴史からすると慶長年間はごく最近のことですが、四百年以上は経っていますのでそれなりに時の経過が感じられます。屋根などに傷みが見られるものの、真新しい状態に修復された状態よりもむしろこちらの方が私には好ましく、境内に身を置いているとゆったりとした気持ちになります。

 

 

伊居太神社の御祭神は穴織姫あやはとりのひめと応神天皇、仁徳天皇ですが、主祭神は穴織姫です。穴織あやはとり漢機織あやはたおりが変化した漢織あやはとりのこと、つまり倭国に織物の技術をもたらした織工女をお祀りしているのが当社で、正式には穴織宮伊居太神社というようです。境内の御由緒によると、応神天皇二十年に後漢の霊帝の四代孫の阿知使主あちのおみとその子の都加使主つかのおみが一族を率いて帰化、その後応神天皇三十七年に父子は機織と縫製の技術を得るため呉の国に遣わされ、呉服媛くれはとりのひめ穴織媛あやはとりのひめ兄媛えひめ弟媛おとひめの四姉妹を連れ帰り、そのうちの呉服媛と穴織媛が池田に迎えられたとのことで、続けて、仁徳天皇は呉服媛と穴織媛の功績をたたえ、二人の死後秦上社と秦下社にそれぞれお祀りしたと、神社の創建に結びつけられています。

 

 

為那都比古神社能勢妙見山のところでも触れたように、伊居太神社は秦上社と呼ばれていました。(秦下社はここから一キロほど南にある呉服《くれは》神社です。)池田各地に秦氏の足跡が残されていることもあり、当社も秦氏に縁があると思っていたのですが、御由緒に秦氏の名は見当たりません。阿知使主は渡来系氏族・東漢氏やまとのあやうじの祖と言われています。秦氏も東漢氏もどちらも同じような時代に倭国に移り住み様々な技術をもたらした有力氏族ですから、東漢氏の足跡が池田にあっても不思議ではないのですが、少々肩すかしをくらった気分です。

しかも鳥居をくぐり参道を歩いていくと、神門の手前に猪名津彦大明神をお祀りする小さなお社があるのですが、そこの説明には御祭神の猪名津彦大明神は阿知使主と都加使主とあり、箕面の為那津比古神社のところで考えたこととも食い違ってしまいます。

神社には土地の歴史を知る手がかりが多く秘められていますが、長い時間の中で改変が加えられるなどして、元の姿がわからなくなってしまうことが往々にしてあります。そのため神社はとても難しい。でもだからこそ面白くもあるのですが、小正月の昨日改めて神社にお詣りに行き神門の前に立ったとき、猪名津彦大明神をお祀りするこの小さなお社こそ、当地における秦氏の足跡を伝えていると気づき、ここ数日の間入り込んでいた御由緒の袋小路にようやく出口が見えた思いがしています。猪名津彦大明神をお祀りするお社の説明に、猪名津彦大明神は阿知使主と都加使主とあることにとらわれ過ぎていました。

とはいえ御由緒には手がかりもあります。それは、允恭天皇の時代に阿知使主と都加使主の子孫の忘奴手直に坂上姓を、弟の奴留間直に秦姓を賜ったと書かれている部分です。説明の文章はとてもわかりにくい上に誤字もあってなかなか厄介ですし、書かれていることすべてが史実ではありませんが、忘奴手直は志拏直のことでしょう。志拏直は坂上田村麻呂で知られる坂上氏の祖といわれています。平安時代末にその坂上氏の田村麻呂の四男の子孫にあたる坂上正任が河内国の土師から池田に進出し、呉庭《くれは》荘を開いています。つまり池田は平安末期に阿知使主・都加使主の流れを汲む坂上氏によって開かれたのです。ちなみに弟の奴留間直に秦姓を賜ったというのは、秦氏の存在をわずかでも残すための苦肉の策ではないかと想像します。

坂上氏は呉庭荘の発展を願い総社として天王社を建て、呉服媛・穴織媛のほか、天王社ですから牛頭天王をお祀りし、自ら神主になったと言われていて、おそらく祖先である阿知使主と都加使主もお祀りしたでしょう。その天王社が現在室町にある呉服《くれは》神社です。

その後時代を経て南北朝時代になると、豪族池田氏が池田に入り城を築き、次第に城下町が形成されていきます。『日本の神社』によると、その際池田氏は呉服媛と穴織媛の二神を分けて、穴織媛を秦上社に、呉服媛を秦下社にお祭りし、河辺郡(現在の尼崎)にあった式内社の伊居太神社の勢いが衰えていたことに乗じ、秦上社を伊居太神社としたのではないかということです。(ちなみに『延喜式』にある伊居太神社は河辺郡のところに入っています。池田は河辺郡ではなく豊島郡ですので、『延喜式』編纂当時当社は式内社ではなかったことになります。こうした混乱も、元々当社が伊居太神社という社名ではなく、後からの改変であると思えば、納得できます。)

つまり平安末期池田に入った坂上氏が、自身の祖である阿知使主・都加使主の存在を前面に出したことで、秦氏の存在が見えにくくなってしまったということではないでしょうか。

神社の木立の隙間から猪名川が見えます。

 

呉服橋に立つと、五月山がよく見えます。神社があるのは中橋という緑の橋に近い山の麓です。秦氏が神を斎き祀ったのは猪名川という水の交通路があり眺めのよい高台でした。

猪名津彦大明神の小さなお社の御祭神として秦氏は今も当地を守ってくださっているのだと思い至り、この日の空のように気分は爽快です。

 

 

 

 

 吉の命を受けて片桐旦元が修復したという本殿を除けば、すべて近代以降のもので境内も

 

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