古社寺風景

法観寺(八坂の塔)

二年前の夏のこと。閑散とした京都東山界隈を歩いていると、黒々とした五重塔、通称八坂の塔が目に飛び込んできました。

八坂の塔があるのは、八坂神社の石鳥居から下河原通を南に五百メートルほど下り、八坂の庚申堂につきあったそのすぐ東です。清水寺に向かう三寧坂の手前と言った方がわかりやすいかもしれませんが、その辺りはいつもなら観光客でごった返す場所です。そういう所はそれまであえて避けてきましたし、用があって通ったとしても、足下ばかり見ていたためか、私の目は八坂の塔に向けられることなくさっとその前を素通りしていたようですが、二年前の夏は違いました。人が消えた通りは数倍広くなったように感じられ、立ち止まって顔を上げると、そこにその塔はありました。

塔の頂から空に向かって突き上がる相輪は長く、屋根の傾斜が緩やか、軒が深く塔身がすらりとしていて、八坂美人といった趣きです。なぜ今まで気に留めなかったのだろうと思いながら、塔の周りをめぐらせた囲いに沿って少しばかり歩き、その日は塔の姿をカメラに収め帰ってきました。不定期で拝観できるようですが、その日門は閉ざされていたのです。

五重塔というと、京都市内には八坂の塔のほか、東寺や醍醐寺、仁和寺に立派なものがあります。八坂の塔は法観寺というお寺のものですが、東寺などの五重塔が壮大な伽藍配置の中にあるのに対し、ここには塔のほか小さな二つのお堂があるのみで、本堂がありません。それもあってお寺という感じがあまりしませんし、境内といっても五重塔を囲むわずかな敷地にすぎません。塔を失うお寺が多いなか、塔だけが残っている法観寺は珍しいと言えます。

八坂の塔の高さは約四十六メートル。木造の塔として日本一の高さを誇る東寺五重塔の五十四、八メートルには及びませんが、八坂の塔は京都市内にある五重塔の中で東寺に次いで二番目に高い塔になります。観光客が溢れ賑やかなときも、コロナ禍で閑散としたいまも、この塔は世の動向に動じることなく八坂の地に押し黙ったように立ち続けています。そう思うと、俄に興味が湧きました。

 

 

 

あれから早二年。先日祇園白川や円山公園で満開の桜を見たあと、八坂の塔を訪ねました。ヨーロッパの街を歩いていると、教会がちょうどよい目印になり自分の居場所を見失わずに歩けるように、八坂の塔もこの界隈においてまさにそうした目印の役目を果たしています。気がついたら塔の前に来ていました。ありがたいことにこの日は門が開いていて、塔の内部も拝観できるとのこと。

 

早速境内に足を踏み入れたところ、満開の染井吉野が五重塔を下から明るく照らしていました。塔に近寄り、真下から見上げると、垂木や組物に圧倒されます。

 

寺伝によるとこの五重塔は、永享十二年(一四四〇)足利義教によって再建されたものですが、法観寺の創建は古く、飛鳥時代にまで遡ります。京都盆地で飛鳥時代創建のお寺というと、北野白梅町付近にあった北野廃寺が知られています。北野廃寺は太秦にある広隆寺の前身、蜂岡寺だとする説もあります。他には北白川にあった北白川廃寺、西京区にあった樫原かたぎはら廃寺がありますが、そう多くはなく、法観寺はそうした数少ない京都盆地における飛鳥時代創建の寺院の一つです。

上の写真にあるように、聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重塔を建立し、仏舎利三粒を納めて法観寺と号したと伝えていますが、信憑性は薄いようです。とはいえ、お寺の周辺から出土した古瓦の様式が七世紀頃のものと推定されることから、創建の時代としては七世紀の飛鳥時代ということは言えるようで、その創建には当寺八坂郷と呼ばれていた一帯を拠点にしていた高麗系渡来人八坂造が関わっていたという説があります。創建当初は八坂寺と称していました。高句麗系渡来人というと、木津川市に上狛、精華町に下狛や狛田といった地名が残っているように、南山城に多くの足跡を残しています。渡来人たちは定住先の南山城で先進的な文化を根付かせましたが、通過点である八坂の地も彼らの根拠地の一つとなったということで、普段何気なく歩いている東山界隈の古代の様子に興味を覚えます。

話によると、聖徳太子が大阪に四天王寺を創建する際、八坂周辺で木材を切り出したのだとか。一大観光地である現在の様子からは想像もつきませんが、古代このあたりは山林で良質な木材が採れたようです。木を伐採し空いた土地にお寺が建てられたということで、創建当初は四天王寺や法隆寺のように塔のほか本堂や講堂などがあったと思われますが、どのようにそれらが配されていたのかははっきりわかっていません。

平安時代には『延喜式』に盂蘭盆会供養料七寺の一つと記されたように、官寺として隆盛しましたが、平安末期に清水寺と祇園社(八坂神社)の争いに巻き込まれて類焼、その後鎌倉時代源頼朝によって再建されるも落雷で焼失、後宇多天皇により再建されましたが、またもや焼失と、三度も焼けています。先ほども触れたように、その後永享十二年(一四四〇)足利義教によって再建されましたが、再建されたのは五重塔のみでした。それもあって往時の伽藍配置が不明なまま周辺はいつしか一大観光地になり、発掘調査もできず今日に至っています。三度目に五重塔が再建された際、他の建物がもし再建されていたなら、この辺りの景観は今とはまるで違ったものになっていたかもしれません。

 

なお現在境内には二つのお堂があります。太子堂と薬師堂ですが、いずれも江戸時代の再建です。

 

国の重要文化財に指定されている五重塔。ありがたいことに塔の二層目まで上ることができますので、早速中へ。

塔内にはご本尊の五智如来像が安置されています。東向きの入り口を入るとまず目に入るのが、東方の阿閦如来あしゅくにょらい。時計回りに歩いていくと、南方に宝生如来、西方に上部に阿弥陀如来を頂いた大日如来、北方に不空成就如来がそれぞれお祀りされています。

鮮やかな色彩が残っているのは須弥壇ばかりではありません。壁に描かれた仏画は傷みはあるものの金や朱がきれいに残っています。この壁画は足利義教によって再建された当時のものですが、元和四年(一六一八)以後何度か修理の手が入っています。

須弥壇下をのぞき込むと、飛鳥時代の中心礎石が。三度も焼失し再建が繰り返されてきた五重塔ですが、心礎が創建当初のまま残っているというのは感慨深いものです。

 

急な階段をあがり二層目に行くと、周囲の街並みを見下ろすことができます。

中央の通りは八坂通り。西向きの眺めです。

 

こちらは東の眺め。

 

そしてこちらは北の眺め。右奥に祇園で異彩を放つ祇園閣の塔先が見えます。

 

飛鳥時代の礎石の上から現代の街並みを眺めていると、創建当時の様子に関心が引き寄せられていきます。飛鳥時代の京都はどのような所だったのでしょう。数は少ないですが、その時代の史跡をまた訪ね歩いてみることにします。

 

 

 

 

 

 

 

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