古社寺風景

阿紀神社

先日投稿した又兵衛桜から北東に一キロほどのところに、『延喜式』神名帳の大和國宇陀郡にある「阿紀神社(鍬靫くわゆき)」に比定されている阿紀神社が鎮座しています。鍬靫とは、祈念祭の際に朝廷から鍬と靫が奉納されたことを示すものですので、当社も朝廷との関係が深く重視されていたことが推測できます。

「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」と柿ノ本人麻呂が詠んだのは宇陀の阿騎野ですが、阿紀神社の阿紀は阿騎野の地名に由来するのでしょう。その「あき」は、人麻呂が文武天皇に仕えた時代より二十年ほど前の壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇)一行が吉野を出発した後食事をとった場所にも見ることができます。『日本書紀』にある宇陀の菟田吾城がそれで、「あき」という地名は少なくともそこまで遡ることができそうです。

ではこの神社の創建はいつ頃なのかということですが、諸説あっていずれも確証を得られてはいませんが、当社と当地の歴史を垣間見ることができそうですのであげておきます。

まず、神社の鳥居脇にある神社の説明によると、大国主命の孫にあたる秋毘売神が当地を開拓し、万代の宮処としてしずまられたとのこと。秋毘売神は『古事記』にのみ記されている神さまで、大年神の系譜とされていますので、神社の御由緒に大国主命の孫とあるのはどこかで取り違えがあったのでしょう。ただその名が示す通り、秋毘売神は秋の収穫に関係しています。後に神武天皇東征の際に天神地祇を祀られたとも記されています。

別の説として、元伊勢に関係しているものもあります。崇神天皇から垂仁天皇の時代に、天照大神は鎮座地を求めて各地を転々とし、最後は伊勢に落ち着いたと言われていますが、鎮座地を探す役割を豊鍬入姫から引き継いだ垂仁天皇の皇女倭姫命が美和御諸の宮を発ち最初に留まった地が宇太阿貴の宮ということで、それが当社であり、そこに神社の創建が結びつけられています。宇太阿貴宮は皇太神宮儀式帳』にあるもので、『倭姫命世記』では宇多秋宮で表記が異なりますが、いずれも同じ場所です。倭姫命はその後宇太佐々波多の宮、伊賀国穴穂の宮など十五箇所ほどを転々とし、最後伊勢に落ち着いたとされています。それをそのまま神社の創建由来とするには疑問がありますが、朝廷や伊勢との結びつきが感じられる話ではあります。

鳥居をくぐると左手に小川が流れています。宇田川の支流本郷川で、ここで禊ぎが行われていたとか。

境内奥に進むと向かって右手に能舞台があります。

この能舞台は江戸時代に宇陀松山藩主によって建てられたもので、大正頃まで能が奉納されていました。平成になって復活し、毎年秋に薪能が行われています。

鳥居は東向きですが、社殿は南向きなので、社殿を横から見ながら進むことになります。

 

こちらが拝殿です。

天照皇大神を主祭神に、天之手力男命あめのたぢからおのみこと、邇々芸命ににぎのみこと秋毘売神あきひめのかみ八意思兼命やごころおもいかねのみことがお祀りされています。天之手力男命は岩戸隠れの際にアマテラスを引きずり出したとされる神さま。邇々芸命は葦原中国の主として高千穂に降臨した神さまで、神武天皇の曾祖父にあたるとされています。秋毘売神は先ほど触れたように収穫に関する神さま。八意思兼命は岩戸隠れの際知恵を授けたとする神さまです。

 

御祭神ばかりか社殿からも伊勢神宮と縁が深いことが伺えます。

 

天照大神の本地仏は大日如来ということで、明治以前まで阿紀神社境内に大日如来をお祀りするお堂がありましたが、神仏分離後その大日如来は阿紀神社から北に百メートルほどの小山にある天益寺に移されたとのことです。

阿紀神社へのお詣り後、そちらに行ってみました。

桜に覆われた小高いところにその天益寺があります。茅葺きの本堂は火災で全焼したらしく、いまだ再建に至っていないようです。大日如来がご無事だといいのですが。

 

遠くから見えた桜は樹齢三百五十年ほどだそうです。又兵衛桜ほどの樹勢はありませんが、それでも枝振りは堂々たるものです。

 

 

帰り際、阿紀神社南の鬱蒼とした森の手前で、「高天原」と記された表示を見つけました。

表示の説明によるとここは阿紀神社の旧社地とのこと。ここが高天原と呼ばれるのは、壬申の乱の際に大海人皇子や持統天皇が東国に向かう際ここを通ったことから、後に思い出深いこの場所に持統天皇が和風名である高天原廣野姫にちなみ高天原と名付け、照巣てれす(又兵衛桜の北四百メートルほど、阿紀神社の西四百メートルほどの山中)に祀られていた天照大神をここに遷されたということで、当地から現在地に神社が遷されたのは平安時代とあります。高天原廣野姫は持統天皇の死後に送られた和風諡号ですので、持統天皇が高天原と名付けたというのは疑問ですが、壬申の乱の際大海人皇子一行がこの辺りを通ったかもしれないということを、高天原と名付けられた旧社地が示しているとすると、歴史の浪漫を感じます。

車で通過してしまったため気づきませんでしたが、横に石段があり、小山の上には石垣があるそうです。ということはかつて何らかの建物が存在していたのでしょうが、それほど古いものではないようです。

ちなみに阿紀神社の由来として、天正年間に神楽岡にあったお社が当地に遷されたという説もあります。神楽岡というと、当地から東に五百メートルほどのところに神楽岡神社があります。宇陀松山城の近くで、この神社も天照大神をお祀りしています。

阿紀神社にお祀りされている天照大神は、表示にあるように高天原から遷されたのか、それとも神楽岡神社のある神楽岡からなのかはわかりませんが、いずれも同じ阿騎野の土地です。

先ほど触れた天益寺の近くに香具山古墳という六世紀後半頃のものと思われる円墳(前方後円墳の可能性もあるようです)があります。壬申の乱より前のものですが、古墳の存在は(それが前方後円墳であるならなおさら)朝廷と関係の深い豪族の存在を伝えるもので、古墳と阿紀神社、高天原と呼ばれる小山がいずれも指呼の間にあることを思うと、壬申の乱の際大海人皇子一行が一時的に留まった土地を記憶に留めるべく、東征を支えた土地の豪族が壬申の乱後に天照大神をお祀りしたのが阿紀神社ではないかという気がしてきますが想像の域を出ません。

天照大神が伊勢の地に落ち着かれた、つまり皇祖神としての天照大神をお祀りする場所として伊勢神宮が創建されたのは、天武・持統朝の時代と考えられます。倭姫命の巡行ルートが、壬申の乱における大海人皇子の東征ルートに重なるところが多いのは、倭姫命の話が後世に作られたものであるためでしょう。そのあたりは伊勢神宮の成立にも関わり複雑ですし、わからないこともまだたくさんありますので、いまそれ以上は触れませんが、宇陀の阿騎野で壬申の乱における東征場面を想像することになるとは思いも寄らないことでした。ここは何気ない風景の奥に、古代の歴史が息を潜めて生きている土地のようです。

 

 

香具山古墳近くにある松源院の桜も満開でした。

 

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