古社寺風景

播州清水寺

西国三十三所のお寺を事あるごとにお参りしています。三十三のお寺は関西圏にまとまっているとはいえ、南は紀伊半島先端から、北は丹後半島の付け根、東は岐阜の谷汲、西は兵庫の姫路と広範囲にわたっていますので、一番札所の青岸渡寺から順に巡礼していくのが本来とはいえ、徒歩で巡礼するには時間と体力ばかりか強い精神力も求められかなり難しいことです。そのようなわけで、行けるときに一寺ずつのお参りになりますが、気がつくと残すところ四分の一ほどになりました。

車や電車を使っての安易なお参りではありますが、実際に足を運んでみると、青岸渡寺なら那智の滝に近い熊野の奥深い山中、善峯寺なら京の町を一望する西山、長命寺なら琵琶湖と対岸の山並を臨む小高い長命寺山という具合に、多くが現在も人里離れた場所にありますので、周囲の自然景観にも魅了されます。それは逆に、それだけ行きにくい場所にあるということでもあって、交通手段のない昔ならなおのことで、そこに至るまでの道のりを徒歩によった往時の人たちのことを思うと、体力はもちろんのこと精神力にほとほと感心させられます。現代と比べ時間はゆったりと流れていたでしょうから、一月程度を旅に費やすのは比較的容易だったかもしれません。また江戸時代には旅人や巡礼者に宿を提供する善根宿が各地にありましたので、善意の支えに助けられたところも多かったのでしょう。当時は他に娯楽がなかったとはいえ、体力と気力を最大限にしなければなかなかできることではありません。観音様にまみえるため数十キロを歩き続け、その御姿を前に健康や長寿を祈り、元の暮らしに戻ってからも平穏に生きていきたいと願う、その思いは至極シンプルなものですが、それがかえって強さを生み、どんな困難もいとわず挑むことができたのではないかと次第に思うようになりました。ついでに途中で美しい風景を目にしたり、美味しいものを食べることができたらなお良いということでしょう。コンピュータも機械も鉄道も車もない時代の方が、人はある部分においては現代より強く優れていたのかもしれません。私の三十三所巡りは、観音巡りであると共に、当時の巡礼者たちへのオマージュも加わりつつあります。

前置きが長くなりました。今回訪ねたのは第二十五番札所、兵庫県にある播州清水寺です。

播州清水寺は兵庫県加東市東部、標高五五二メートルの御嶽山山頂にあります。一帯は自然豊かな丘陵地帯で、丹波篠山市、西脇市、三田市、加東市にわたる広範囲が清水東条湖立杭県立自然公園に指定されており、お寺もその範囲内です。御嶽山というと、ここから二十数キロ北東の、丹波篠山市にある御嶽山と混同されることがあるかもしれませんが、丹波篠山の御嶽山は標高七九三メートル、多紀連山の主峰で別の山です。

播州清水寺へは、以前はつづら折りの参道を徒歩で上ってお参りしていましたが、現在は車道が整備されているので、車で三分ほど上ると仁王門に到着します。朱色の仁王門は昭和四十年(一九六五)の台風で倒壊、昭和五十五年(一九八八)に再建されたため、三十三所のお寺にしては新しい感じがします。実は境内にある主要建物は大正以降に再建されたものが多く、境内全体新しい感じが否めませんが、創建の歴史は古く遡ります。

寺伝によると、景行天皇の時代に天竺(インド)の法道仙人によって開かれ、推古天皇の時代(推古三十五年 六二七)に根本中堂が建立され、さらに聖武天皇の神亀二年(七二五)行基によって大講堂が建てられたとのことです。景行天皇の時代というと古墳時代です。法道仙人は伝説上の人物とされ実在したかどうか確証はありませんが、六世紀半ばから七世紀ごろに古代インドの霊鷲山から渡来したと伝わりますので時代が合いません。六世紀半ばから七世紀というと欽明天皇から推古天皇あたりの時代です。

それはともかく、当寺にも法道仙人との関わりが伝わっているのは興味を惹かれます。

法道仙人は播磨国の山寺の多くで、開山、開基にその名を挙げられています。西国三十三所で播州清水寺の次の第二十六番札所になっている一乗寺はその代表で、法道仙人が日本に渡り最初に発見した霊山は一乗寺の裏手にある法華山だったと言い伝えられています。一乗寺の近くには法道仙人の手形や仙人が乗ってきた馬の蹄の跡など縁のものがいくつかあり、法道仙人への信仰がうかがえます。同じく三十三所ということでは、番外になっている三田市の花山院も法道仙人開基と伝わります。仙人と称されるように、法道仙人は超人的な能力を持っており、空の鉄鉢を自在に飛ばし行き交う船に米など食糧の施しを求めたという伝承も播磨各地で見られ、それゆえ空鉢仙人とも呼ばれます。播磨に伝わる空鉢伝承の多くは、瀬戸内海を行き交う船に施しを求めるものであることから、航路において勧進活動を行う人たちが法道仙人の信仰と伝承を広めたのかもしれません。

ちなみに以前投稿した近江八幡の伊崎寺で行われている棹飛びの行も、空鉢伝承から何らかの影響を受けたのではないかという説があります。瀬戸内海も琵琶湖も航路として重要でしたので、この不思議な仙人は水運と関係があるのかもしれません。

余談ですが、法道仙人は牛頭天王と共に日本に渡ったと伝わります。牛頭天王は本来祇園精舎の守護神で、日本では蘇民将来説話の武塔神と同一視されたり、スサノオの本地仏にされたりと、神仏習合の流れの中で多くの性質を加味され変化していったので謎が多いのですが、伝承では姫路の広峯神社にお祀りされた後、京都八坂神社にお祀りされるようになっていることから、広峯神社は京都祇園社の本社とされています。京都八坂神社の起源が、法道仙人と同時代播磨国にあったということはとても興味深いことです。

 

仁王門をくぐり左手に延びる参道を進んでみましょう。

山寺らしく高木が聳え、石垣が目を惹きます。石垣は江戸時代中期のものだとか。

 

途中には、多宝塔跡に通じる石段があります。上ってみたい衝動に駆られる美しい石段ですが、先に進みます。

 

お寺には珍しく犬も境内に入ることができます。犬好きのご住職が敷地内にドッグランを作ったおかげで、わんちゃんたちも堂々とお参りできます。

 

葉を落としきった大銀杏を回り込むと、薬師堂があります。

平安末期に池禅尼(平忠盛の正室、清盛の継母)によって創建されたと伝わりますが、現在の建物は昭和五十九年(一九八四)に再建されたものです。堂内には薬師如来のほか、藪内佐斗司氏による干支の動物による十二神将が安置されています。

 

放生池の西にあるのが大講堂。聖武天皇の勅願所として神亀二年(七二五)に創建されましたが、大正二年(一九一三)の火災で焼失し、大正六年(一九一七)に再建されています。この大講堂は三十三所巡礼の札堂でもあり、巡礼姿の方もちらほら見かけました。大講堂の御本尊は千手観音坐像(大正時代の作)。

 

大講堂と放生池の間の階段を上ると、途中の右手には地蔵堂、さらに上ると根本中堂があります。

 

こちらの地蔵堂も昭和五十七年(一九八二)の再建。かつては地蔵信仰の聖地として栄えたそうです。

 

根本中堂は推古天皇の勅願所として推古三十五年(六二七)に創建されたと伝わるもので、建物としては当寺で一番古いものですが、こちらも大講堂同様に大正二年の火災で焼失、大正六年に再建されています。御本尊の十一面観音像は法道仙人によるものと伝わる秘仏で、ご開帳は三十年に一度。直近では二〇一七年にご開帳になっているので、生きている間に拝観することは不可能ですが、写真を見ると鑿の跡が豪快でどっしりとした印象の十一面さんです。

播州清水寺は京都の清水寺(こちらも三十三所の第十六番札所です)と区別するために播州清水寺と呼ばれます。京都の清水寺の創建に音羽山の瀧が関係しているように、播州清水寺にも霊泉があります。根本中堂の奥に入った山中にある覆い屋根の下にあるのがその井戸です。

法道仙人が水神に祈って出現した霊泉とのことで、滾浄水(おかげの井戸)と呼ばれます。水をのぞき込んで自分の顔を映し出すと、寿命が三年延びると言い伝えられているそうです。

 

根本中堂からさらに山の上に通じる道を行くとさらに石段があります。

 

 

そこに現れたのは、礎石の上に無数の積石が置かれた光景。かつてここには多宝塔(大塔)がありましたが、明治四十年(一九〇七)に焼失し大正十二年(一九二三)に再建されるも、昭和四十年(一九六五)の台風で傾き、昭和四十七年(一九七三)の落雷で崩壊したため完全に撤去され、現在このようになっています。多宝塔は平安時代に祇園女御によって建立されたと伝わります。これまで見てきたお堂は失われた後に再建されていますが、ここだけは礎石が剥き出しになったままの状態です。再建されない理由はわかりませんが、度重なる悲運に見舞われた多宝塔の残骸に、お参りに訪れた人たちが手を合わせた証が、無数の積石に現れているような気がしました。

 

 

破壊された石段から、当時の威容が想像できます。

 

白洲正子さんが『西国巡礼』の取材で播州清水寺を訪れたときは多宝塔が撤去される前で、多宝塔から突然目の前に現れた光景を「想像もつかないような景色」と記しています。多宝塔は現在なくとも、お寺全体がそれなりに高いところにあるので眺望を期待していたのですが、鬱蒼と茂る木々に視界が遮られ、眺望は得られないのだと思って帰ってきました。後からわかったことに、大講堂の回廊の角からわずかに瀬戸内海や淡路島が見えるそうです。

「正面に見える海は、高砂の浦です。東は淡路島、西にぼんやり見えるのは小豆島でしょう。六甲の展望台が、あれあんな下の方に見えます。それから東の方に、かすかに見えるのは京都の東山ですね。そうです、すばらしい眺めでしょう」

『西国巡礼』に記されている案内してくれたお坊さんのこの言葉を再読し、この眺望があってこそ播州清水寺のお参りが完結するのにと、この体験が叶った白洲さんが羨ましくなりました。けれども、こうして言葉にして残していただいたおかげで、本来の播州清水寺の魅力を想像することはできます。そもそも私の三十三所巡りは最初から本来の理想から隔たった形で進められています。間接的にでも体験でき、有りがたいことです。

 

 

 

 

 

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