伊勢街道を歩いたとき以来、十二年ぶりに松阪を訪れました。
松阪市は東西に長く、東は伊勢湾、西は奈良県に接しています。東の平地が市の中心で、さらにその中心に松坂城があります。現在天守閣をはじめとする建物は残っていませんが、豪壮な石垣を見れば松阪城がいかに規模の大きな城だったかということが容易に想像できます。
松坂城が築かれたのは天正十六年(一五八八)。その四年前に伊勢湾に近い松ヶ島城に入城した近江国日野城主蒲生氏郷が、城下町を作るのにより適した場所を求め、松ヶ島城より数キロ内陸の四五百森と呼ばれる丘に築いたのが松坂城です。資材の調達が間に合わず領内の寺社を取り壊して転用し、一年あまりで完成したと伝わります。さらに氏郷は城下町に松ヶ島の住人を強制的に移住させ、近江の日野からは近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設けるなど、信長の城下町作りを参考にしながら松坂城と城下町建設に注力しました。ちなみに氏郷は、城の完成から二年後の天正十八年に陸奥国会津の若松城に移封させられています。
氏郷の後は、服部一忠、吉田重勝と城主が変わり、元和五年(一六一九)紀州藩領となり城代が置かれました。
文久三年(一八六三)、松坂城の警備を担うため、紀州藩士とその家族が城の南に住んだ武家屋敷が今も残っています。一つ屋根の長屋で、石畳の小径の東側に十戸、西側九戸が現存しており、現在も子孫の方たちが維持管理されています。(本来は東西に十戸ずつありましたが、明治に入り一戸が解体されています)江戸時代の武家屋敷が当時の形態のまま維持保存されているのは珍しく、「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されています。
一般には御城番屋敷と呼ばれている組長屋。城のある高台から見るとこのような感じです。
上は東側の建物。美しく整えられた槙の生け垣が眼を惹きます。家によっては槙の間に山茶花などを植えているところもあり、そうすると花びらが散るのでしょう、夕方この通りを歩いたとき、家の前を綺麗に掃き清めていました。一つの落ち葉もない通りを前に背筋が伸びるようです。
御城番屋敷は借家として利用されているものや、上のように一般公開されているものもあります。
庭越しに向かいの建物が見えます。
玄関を入ると奥に土間が続き、その向かって左側に六畳間が二間、さらにその左に八畳間が二間あります。
御城番屋敷に居住した紀州藩士の祖先は、徳川家康の先鋒隊として活躍した横須賀党と呼ばれる勇猛な武士団で、家康の子頼宣の家臣として紀州藩の田辺に遣わされ、田辺城主安藤家を助勢する使命を与えられた藩主直属の家臣となりました。二百年あまり田辺与力として活躍していましたが、安政五年(一八五五)突如安藤家の家臣となるようにと通告されたため、直臣としての誇りを持つ彼らはそれを不服とし、武士の身分を捨ててしまいます。浪人の身である間も、帰藩の嘆願を続けていたところ、紀州徳川家の菩提寺長保寺の住職海弁僧正の支援により、文久三年(一八六三)に松坂城の御城番として藩に復帰することができました。
直臣の誇りが、御城番屋敷の佇まいにもよく現れているように感じます。
明治になると彼らは苗秀社を設立し、建物の維持管理に当たってきました。現在の社員も当時の直系の子孫たちで、いまも紀州藩主徳川頼宣や長保寺の海弁僧正への恩義を忘れず祭祀を続けているそうです。
松坂城に向かって歩いていった北東に土蔵があります。これは城内にあった米蔵を明治になってここに移築したものですが、土蔵の隣に見える小さな神社は南龍神社といって紀州藩主徳川頼宣がお祀りされています。
こちらもはじめは本丸跡にあったものですが、昭和になってから現在地に遷されています。
十二年前、街道歩きの途中で立ち寄り、この通りの佇まいに驚きました。冒頭の写真はそのときのものですが、整然とした美しさは少しも変わっていません。