古社寺風景

海住山寺

みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ  中納言兼輔 

百人一首に収められた有名なこの歌の作者は、平安中期の歌人藤原兼輔で、紫式部の曾祖父にあたります。みかの原を分けるようにわき出て流れるいづみ川よ、その人をいつ見たとも言えないのになぜこんなに恋しいのだろう、という平安貴族の恋心が歌われていますが、同時に絵画的でありながら音楽的な魅力もあり、昔から好きな一首です。みかの原は、南山城を流れる木津川の北一帯にある小さな盆地で、いづみ川は泉川、現在の木津川です。何より「みかの原」と「いづみ川」の音が美しく、子供の頃に初めてこの歌に接したとき、みかの原の風景を知らなかったにもかかわらず憧れの気持ちを抱いたほどです。「わきて流るる」は、みかの原から湧き出るように流れると同時に、みかの原を分かつように流れてもいる、その両方を掛けていて、情景を想起させますし、さらに続く「いづみ川」の「いづみ」がそれに続く「いつみ」に流れるように繋がり、まるで音楽を聴いているようです。その間を縫うように心情が流れていく歌の世界は短いながらも完成された時間芸術といった趣きで、歌は奥が深いとつくづく思います。

それはさておき、音の響きに惹かれた「みかの原」は瓶原、甕原、三日原、三香原などと表記されます。後の二つは音に合わせた表記かと思いますが、先の二つはかつてここに甕が埋められそこから水が湧いたという伝説によるものと伝わります。いづみ川(木津川)の水の豊かさを想起させますが、甕は単なるイメージではなく、歴史を伝えるものかもしれません。上狛、下狛、高麗、狛田といった地名が残っているように、瓶原周辺は朝鮮半島からの渡来人が居住した土地でもあったので、陶器類が焼かれた可能性が見え隠れしているように思うのです。木津川の水を求め、古くから人の営みがあった土地であることは、近辺に残された古墳や古代寺院跡(狛氏の氏寺だった高麗寺跡)からもうかがえます。

木津川は平城京の時代になると物資輸送のための重要な交通路になりました。建築に欠かせない木材は近江や伊賀などから切り出されましたが、たとえば近江の場合は琵琶湖から瀬田川、巨椋池を経て木津川を遡り、泉津で陸揚げされ、そこから陸路で都に運ばれましたし、伊賀の場合は木津川の上流から泉津に集められ、そこで陸揚げされています。泉津は都に運ばれる物資の集積地となり、その中心が木材だったことから木津と呼ばれるようになり、川の名前も泉川から木津川に変わりました。ちなみに泉津は現在の泉大橋付近とされています。

 

木津川が流れる瓶原は風光明媚な土地として好まれ、奈良時代初期には離宮が営まれましたし、聖武天皇の御代にはわずか三年三ヶ月の間でしたが恭仁京が置かれ、政治の中心地になったこともあります。

こうした土地を眼下に見下ろす山の中腹にあるのが、今回取り上げる海住山寺です。

 

前回投稿した浄瑠璃寺から直線距離にして北に七キロほど、木津川を越え勾配の急な坂を上った山の中腹にお寺はあります。参詣道は登山道といったほうが相応しいかなり急峻な道ですが、所々に石仏が点在し、途中瓶原の眺望も開けるので、時間と体力があれば歩いて上ったほうがよいのですが、この日は整備された道を車で行きました。下は十三年前に歩いてお参りした際、途中の参道から瓶原を見下ろした風景。大変な道だったことが思い出されます。

盛期には五十八坊の塔頭があったとのことなので、参道途中に残るこちらの門(写真上)も、かつての塔頭跡でしょうか。

 

 

 

 

歩いて上ると休み休みで二十分ほど、車ですと五分ほどで到着します。山門は山寺らしい簡素な造りで東向き。そこをくぐると正面に建つ本堂と、向かって左(南)に聳える五重塔が目に飛び込んできます。

 

五重塔は鎌倉時代の建保二年(一二一四)に完成したもので、国宝に指定されています。

 

本堂の右(北)には文殊堂(写真下 重要文化財)があり、さらに文殊堂の裏手奥にも本坊や奥書院が配されています。以上が現在境内にある建物で、最盛期の様子とはかなり異なりますが、現在のお寺は山の中腹のわずかな平地に伽藍が凝縮し、これはこれで密度が濃い感じがします。まさに山のお寺ですが、寺名が海住山寺というのでその由来が気になります。

海住山寺の創建時期について確かなことはわかりませんが、”平城京の鬼門に位置するこの場所にお寺を建てよ、そうすれば東大寺の大仏が無事完成するだろう”とのお告げにより、聖武天皇の勅願で天平七年(七三五)良弁によって十一面観音を御本尊として開かれ、当初は藤尾山観音寺と号したと伝わります。ちなみに恭仁京遷都は天平十二年(七四〇)に行われていますが、恭仁京があったとされる場所は境内のちょうど南ですので、新しい都を守る存在として創建された可能性も想像したくなります。ですが、本堂や五重塔周辺から平安時代まで遡ることのできる瓦片は出土しているものの、奈良時代創建を示すものは現時点では見つかっていませんので、良弁開基は今のところ伝承に留まっています。

その後火災で焼失し衰退していましたが、鎌倉時代の承元二年(一二〇八)解脱坊貞慶が当寺に入り寺名を海住山寺と改め中興したことで、新たな歴史を刻むことになりました。貞慶は藤原貞憲の子として久寿二年(一一五五)に生まれますが、家が没落したため幼くして興福寺に入り、叔父の覚憲から法相や律を学び頭角を現しました。けれども僧の堕落に嫌気がさし、弥勒信仰の聖地だった笠置に籠もってしまいます。笠置は瓶原から木津川沿いに八キロほど上流に行ったところにあり、笠置山には大海人皇子創建と伝わる笠置寺があります。

笠置山の山頂には弥勒菩薩が刻まれた巨大な磨崖仏がありました。あいにく元弘の乱で表面が焼かれ刻まれた仏像が剥落していますが、貞慶が笠置寺に入った当時はしっかりと刻まれていました。室生寺に近い大野寺の磨崖仏は、笠置の弥勒菩薩を模して造られたと言われていますので、笠置寺の弥勒菩薩も大野寺同様に柔和で包容力のあるお姿だったのだろうと想像はできます。貞慶は巨岩に刻まれた弥勒菩薩を仰ぎ見ながら弥勒信仰の聖地に十五年ほど留まり、その間笠置寺の境内を整備したり、自らの信仰をまとめた『発心講式』を著したり、『大般若教』の書写を発願したりと戒律の復興を目指し多方面で活躍した後、笠置寺を出て観音寺(海住山寺)に移りました。貞慶五十四歳のときのことです。未来仏である弥勒菩薩より観音菩薩の現世利益に思いを強くするいった信仰の変化があったのでしょうか。

観音寺に移った晩年の貞慶は観音信仰のもと、寺を再興、海住山寺と改めたことは先ほども触れた通りです。気にかかっていた寺名については、貞慶著明本抄』の「良算聞書」で、衆生を救済しようという観音の誓願が広大である様子を海になぞらえていることから、海のように広大な観音の誓願に安住することを願って海住山寺としたという説が一つ。また、山号の補陀落山は観音菩薩が降臨する山で南海にあると考えられていましたので、海にある観音菩薩の聖地としての山を意味するものとして海住山寺としたという説もあります。どちらにせよ貞慶の観音信仰の思いが託されているとわかりました。

貞慶が海住山寺にいたのはわずか五年で、建暦三年(一二一三)五十九歳で亡くなります。その後を継いだのが弟子の覚真です。覚真は後鳥羽上皇の側近でしたが、貞慶を慕って出家し、後半生を寺の復興に尽くしました。その結果最盛期には南都律学の拠点として五十八坊の塔頭を構える大寺になっています。

その覚真が貞慶一周忌の際五重塔を建立し仏舎利を納めたと伝わるそうで、それが現在海住山寺のシンボルにもなっている五重塔とのことです。

五重塔の高さは十七、七メートル。五重塔としては室生寺に次いで二番目に小さいものですが、境内がこぢんまりとしているせいか小さいという感じはしません。初層の屋根の下に裳階という庇が付いているのが特徴で、遠くから見ると重厚な感じがしますが、それを支える柱の間に壁が設けられていないこともあり、間近で見ると風が吹き抜け軽やかです。内部は拝観できないものの、展示されていた写真によると、四天柱に囲まれた内陣には扉が設けられて厨子のようになっており、極彩色で装飾されていたことがわかります。貞慶は仏舎利に対し強い信仰を持っていたと言われます。熱心に弥勒菩薩を信仰していた笠置の時代も、観音菩薩を信仰していた海住山寺の時代も、根本には釈迦如来への信仰を強く持っていたということが、この五重塔から伝わってきます。

 

本堂は明治の再建。そこにお祀りされている御本尊の十一面観音像(国の重要文化財)は榧の一木造り、平安時代のものと伝わる等身大の立像で、自然の洞があることから何かの古木から造られたのではとのこと。がっしりとした直線的な体格で、表情にも強さを感じる観音像ですが、それがむしろ安心感を与えてくださるようです。ここにはもう一体、奥の院の御本尊として小さな十一面観音像も伝わっています。平安時代後期のもので、大半が榧と考えられていますが、色味が御本尊と異なり暗赤色をしています。貞慶の念持仏だったというもので、こちらは御本尊とは雰囲気が異なり、曲線的で優美な観音像です。

本堂裏手の山道を上がっていくと、眺望の開ける場所があり、眼下に木津川を捉えることができます。

木津川流域には十一面観音像をお祀りするお寺がいくつもあります。上流の貞慶が隠棲していた笠置寺もそうですし、海住山寺の南東におよそ二キロの現光寺、南東八キロの岩船寺、北西におよそ七キロの寿宝寺、少し離れますが京田辺の観音寺(普賢寺)などがそうで、まるで川を見守るように分布していますが、『天災と日本人』(畑中章宏著)によると、自然崇拝にもとづく水の神は、道教や仏教の竜神や竜王と習合し、さらには十一面観音にその役割が託されていったと考えられることから、各地にお祀りされている十一面観音像は、治水や利水の象徴だったのではないかとのことで、同様のことは白洲正子さんも『十一面観音巡礼』で指摘されています。恭仁京を潤す木津川を見守る役割が海住山寺に託されていたのでしょうか。

余談ですが、明治の終わりから昭和にかけて活躍した異端の日本画家秦テルヲは、大正九年(一九二〇)子供の誕生をきっかけに瓶原に移り住み、瓶原の風景のほか仏画や母子像といった宗教的な要素の強い作品を手がけるようになりました。独特の作風なので好みは分かれるかと思います。私も初めて秦の作品を見たときは正直なところ受け付けませんでしたが、昨年京都文化博物館で開催された「発掘された珠玉の名品 少女たち」で秦テルヲの作品を何点か目にして以来、とくに瓶原時代の母子像に宗教の種類を超えた慈愛や抱擁力を感じ惹かれるようになりました。土地に浸透した信仰や歴史が秦の深部に到達して共鳴し、画家に新たな境地を開かせたような気がしています。

 

 

 

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