心に留まった風景

西福寺にて

現在京都文化博物館で石崎光瑤展が開催されています(十一月十日まで)。石崎光瑤は明治十七年(一八八四)富山県福光町(現南砺市)に生まれ、明治の末から昭和の初めにかけて活躍した日本画家です。金沢で江戸琳派の絵師山本光一に、京都で竹内栖鳳に師事した光瑤は、インド旅行を機に色彩豊かで華麗な花鳥画を手がけるようになり、代表作「熱国妍春ねっこくけんしゅん」「燦雨さんう」「白孔雀」といった作品を生み出しました。今年は生誕百四十年ということで、初期から晩年までの作品が集結しています。

こちらは「燦雨」。伝統的な花鳥画とは一線を画した大胆な構図と鮮やかな色彩にすっかり魅了されました。写真では伝わりませんが、画面には激しいスコールが金の線で表現され、雨音や湿気まで伝わってくるようです。(四階に展示されている作品は撮影可)「燦雨」のような華やかな作品はもちろんのこと、インド旅行以前の「かけい」「森の藤」といった繊細な花が画面全体に拡がる作品や晩年の余白を生かした花の作品もすばらしく、光瑤の作品を堪能しましたが、そこに一点、光瑤の作風とは異なるものがありました。会場で写真を取り損ねたので図録の写真を載せますが、光瑤が模写した伊藤若冲の作品です。一瞬若冲の作品かと思ったほどの緻密で正確な描写で、光瑤の技術の高さに目を瞠はった一枚。今回はこの若冲の本画の話です。

石崎光瑤は洋の東西を問わず熱心に古画を研究しています。その中でも特に惹かれたのが伊藤若冲でした。大正十四年(一九二五)大阪のとある寺に若冲筆と伝わる襖絵があると知った光瑤はその寺に足を運び、それが若冲の真筆であると確信、美術雑誌『中央美術』第十二巻第五号)に発見の経緯を寄稿しています。若冲に憧れ作品を見続けてきたからこその成果です。その作品は、襖六面からなる仙人掌群鶏図さぼてんぐんけいず」(国の重要文化財)。若冲の晩年を代表する傑作として知られています。光瑤展で展示されていた模写はその作品の一部で、上の左の絵は以前記念切手に使われたこともありますので、見覚えのある方も多いのではないでしょうか。

若冲の「仙人掌群鶏図」が光瑤によって見出された大阪の寺は西福寺といって、豊中市小曽根にあります。毎年十一月三日の一日に限り、虫干しを兼ねて一般公開されますが、これまで行きそびれていました。今年は若冲や光瑤に縁があるようで、というよりも、一度関心が向くとそこから糸が延びて繋がっていくということなのかもしれません、うまくタイミングもあって拝観することができました。前日の激しい雨も上がり、三日は朝から快晴。虫干し日よりでした。

西福寺のある豊中市小曽根は、東に淀川水系の高川、西に天竺川、南に神崎川と、川に囲まれています。曽根という地名の多くが自然堤防の歴史を伝えていますが、当地もまさにそのようです。新大阪から北に四キロほど、すぐ東が江坂で、中世には豊島郡榎坂郷に属していました。

西福寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。創建は鎌倉時代の延慶元年(一三〇八)、源頼の子孫にあたる乗雲によって天台宗の寺院として開かれたと伝わります。乗雲は文保二年(一三一八)に本願寺の第三世覚如上人に帰依し、それ以後寺も浄土真宗となりました。真宗に転じたことで、乗雲も道念と改名しています。

正徳二年(一七一二)火災で本堂が焼失、享保三年(一七一八)に再建され現在に至っています。その際古文書類も焼けてしまったため、西福寺の詳細な歴史はわからなくなりました。本堂前で横に大きく枝を伸ばした黒松は、本堂再建時に植えられたと伝わり扇松と呼ばれます。幹の上部が切られていますが、枝ぶりは見事です。

本堂前には南北朝時代のものと思われる宝篋印塔の基礎部分が残っています。現在西福寺に伝わる最も古い遺跡かもしれません。

それはさておき、本堂が再建されてから七十年経った天明八年(一七八八)、伊藤若冲は天明の大火により京都の家も作品も失ってしまいます。失意の底にあった若冲を助けたのが大阪の文化人たちで、彼らの援助のもと若冲はしばらく大阪に滞在することになったといいます。木村蒹葭堂きむらけんかどうという知識文化人の名が上がっていますが、若冲の支援者の中には、大阪の鰻谷(現大阪市中央区島之内)で薬種を調合して小売りをする合薬屋吉野屋の主人もいました。吉野屋は人参三臓圓という合薬を全国に広め、江戸後期大阪一の薬屋と言われていたそうですが、四代目吉野五運が西福寺の檀家だった縁で若冲は寺に招かれ、半年ほどの滞在中に「仙人掌群鶏図」などを描いたと伝わります。若冲は同じ時期、伏見の海宝寺の障壁画も手がけており、大火ですべてを失いまとまったお金が必要だったことからこうした大作を手がけたと考えられています。

西福寺では撮影禁止のため、作品は平成十二年(二〇〇〇)に行われた若冲没後二百年の展覧会図録から。

「仙人掌群鶏図」は、内陣と外陣を仕切る襖に描かれています。本堂にあがってまず目に飛び込んでくるのが右の三面で、黄金の内陣に引けを取らない迫力です。仙人掌と鶏とは珍しい組み合わせですが、吉野五運が外国の珍しい植物を蒐集していたようで、それが若冲の目に留まったということのようです。仙人掌も鶏も、一つ一つが力強く圧倒されます。描かれた当初は現在より色が鮮やかだったとのことなので、阿弥陀様を荘厳するのにこれ以上のものはないでしょう。「斗米庵米斗翁行年七十五歳画」と記されていることから、若冲七十五歳のときの絵です。ちなみに斗米翁とは、売茶翁の生き方に憧れた若冲が自らをなぞらえ号したもので、生涯独身、絵一枚を米一斗と引き替え生活するという若冲の生き様がその名に込められています。(売茶翁のことは萬福寺のところでも触れていますので、よろしければそちらもご覧ください。)

 

実際には左右の襖の間に内陣がありますので、いったん一息ついてお参りしてから左の襖絵を拝観することになりますが、きらびやかな内陣との一体感が見事で、一年に一度とはいえこうして本来あるべき場所で間近に拝観できることをありがたく思いました。

内陣手前には七十九歳の作「野晒図」が展示されていました。若冲は天明の大火の後、寛政二年頃に大病を患います。大火後の過労がたたったようですが、病が癒えた七十六歳の若冲は石峰寺門前で絵を描いて米一斗分の代金をもらいながら暮らすようになります。この絵がどういった経緯で西福寺に伝わるのかはわかりませんが、最晩年のうら寂しさが感じられます。

賛には長門介(香川)景樹の歌「月 闇も無常にかくてる月ならばよをぬる人はあらじとぞ思ふ」

「仙人掌群鶏図」の意気揚々とした雰囲気とは対照的で、若冲のまた違った一面を見る思いがします。

本堂左には「仙人掌群鶏図」の裏に貼られていた「蓮池図」も。現在は六幅の掛幅画に仕立て直されています。かなり傷んでいたようで、最近修復から戻ってきました。

こちらの「仙人掌群鶏図」と同時期の若冲七十五歳の作とされます。力強く生命力に溢れる「仙人掌群鶏図」の裏、つまり内陣側にこの作品が描かれていたことになりますが、墨だけの静謐でどこか寂しさの漂う世界を煌びやかな内陣側に描いた若冲の心理はどのようなものだったのでしょうか。人間も自然も同じ輪廻の中に存在していることを伝える晩年若冲のメッセージだったような気がしています。

西福寺にはもう一点「山水図」が伝わっていますが、修復中のため拝観できませんでしたので、またの機会に。

最晩年の若冲再起の場で生まれた傑作を間近で拝観した余韻がいまも残っています。

若冲といえば、円山応挙との合作金屏風が発見されたところです。制作は天明七年(一七八七)頃、天明の大火の前年に当たります。若冲が鶏、応挙が鯉を描いた作品。個人蔵だったものを山下祐二さんが真筆と確認されたそうです。若冲と応挙の接点を示すものはこれまでなかっただけに、大発見です。来年六月に大阪中之島美術館で一般公開されますので是非見に行かなくてはと思っているところです。

追記:光瑤が西福寺で若冲の「仙人掌群鶏図」を見出した経緯などについて雑誌「中央美術」第十二巻第五号(大正十五年)に寄稿した文章のコピーを、国会図書館から取り寄せました。光瑤の若冲への熱い思いや発見当時の高揚感が伝わる文章で、大正十五年当時の様子もわかりますので、長くなりますが引用します(旧字は新字に変更しています)。光瑤は絵画教室の生徒から、大阪近郊の寺に若冲の襖絵があると聞かされ、生徒の模写を見せてもらいます。走り描きとはいえ、若冲の真筆だろうと胸躍らせ、寺を訪ねます。

私は本堂に第一歩を移して、最も近くにある向つて最右端にある一枚の襖に眼を注いだ瞬間、想像が遂に現実となつた事に欣喜した。

 右の端から突き出した簡楚な仙人掌の象徴的な強さ、其賦彩の緑青と怪石の群緑の色とが、金地の上に奏する美しき階調の下に、只一羽の矮少なる老鶏が、地上の何物かを啄んでゐる、自分共の眼は喜びに輝きつゝ次へと移つて行く。二枚目には巨大なる雄の、雙脚にて振返れるに配するに、最も完備せる一羽の灰黒色の雌を以てしてゐる、雄の姿態は三十六幅中の、人仙花の下に描けると略似てゐる。是に対立して雌の描写は、実に緊張した写実の極致であり、而も威霊の強き事に於て、かの大徳寺什実牧谿の猿鶴の大幅に、闊歩せる白鶴と伯仲すると迄賞讃することに躊躇しないものである。何等の奇矯なく静かに両脚を張つて佇立せる此雌の表現の強さは、古代埃及のブロンズの猫や、黒花崗岩に刻まれた鷹などの藝術と共通せるものを見出す。

 三枚目は色彩の最も変化に富む雄と、茶褐色の雌との性の活動を描いてる(ママ)、雄の両翼を地に摺つて雌に迫つて圏を描いてゐる場面と一転して、いとも静謐に白き若き雄と、俗間碁石と称する黒白の入り乱れたる雌を描かれてある。五枚目には只一羽の巨大なる雄で、利刃の如き其羽毛、血の滴る如き其肉冠、猛鷲の如き眼光、精悍の気全面を圧するの概がある。六枚目は怪獣の朽骨にも彷たる怪石と、熱帯に日常見る、雄大なる幹を有せる仙人掌が、縦横に葉を張つて、其一端は第五圏に迄及んでゐる、是には雌雄の他に数羽の雛の親鳥の或は背に腹も慈まれてゐる。以上六枚の襖絵を通覧し、而して其落款に、斗米庵米斗翁七十五歳画とあるに照して、其高齢に似ず、用意技巧等の益々旺盛なるに驚き、且つ三十六に幅比して著しく、或は峻烈に、或は老獪に、其自由な進境の益々其凡庸にあらざる驚嘆する。(後略)

それは兎も角、かゝる若冲の大作が、大阪の近郊に今日迄汎く識らるゝ事なく、又可なり長き間村童等の心なき落書きなどを其画面に受けながらも、今日迄大破なく保存されて来た事をも、奇蹟の様に感ずる(後略)

 

 

 

 

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