古社寺風景

化野念仏寺

昨今家族のあり方や家に対する意識の変化、少子化などにより、墓じまいをする人が増えています。お墓に対する考えは、家によってまた個人によっても異なりますが、正解のないことです。お墓の問題はそこに眠る故人に対する追悼の思いだけでなく、その時代その時代の死生観はもとより死穢観、魂の問題、遺骨に対する思い、宗教観、社会的な身分や地位、家格の問題、最近ではビジネスとしての側面などいろいろなことが絡み合っています。そのためお墓をどうするかということになったとき、ときに感情的な問題にも発展するのです。故人との関係が記憶から呼び起こされ、しまい込んでいた複雑な感情に火がついてしまうと、相続の際の問題にも似て、事態を収束させるのが困難になることもあります。そうしたことは世によくあることと、なんとなく聞き及んではいましたが、思いもよらず自分がその類いの問題の当事者になってしまい、平常心に戻るのにある程度の時間を要しました。ですが墓守という重い責務を突きつけられたことがきっかけとなり、お墓というものについて考える時間が増えたのはプラスの効果と言えます。現在各地の霊園に立ち並ぶような、石に文字を刻んだ墓標を庶民が持つようになったのは近世後期と歴史的に見て新しいものです。ならばそれ以前日本人は死者とどう向き合ってきたのか、死者は死後どのように扱われてきたのだろうかということに関心が向くようになりました。心にほんの少しゆとりが生まれた秋の一日、墓守の立場として自身の祖霊とこれからどのように向き合っていくべきかを考えるヒントを、日本のお墓の歴史に求めていけたらと思い、まずは嵯峨野にある化野念仏寺あだしのねんぶつじに詣でました。

化野念仏寺は外国人観光客で立錐の余地のない嵐山から少し北の、嵯峨鳥居本化野にあります。嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区になっているこの辺りは、落ち着いた洛北の風景が続きますが、京の都の東に位置する鳥辺野や北の蓮台野と共に、平安京の葬送の地としての歴史を持ちます。以前お盆の六道まいりのことで、六道珍皇寺について投稿しました。山から下りてきた精霊を珍皇寺でお迎えするという宗教行事ですが、それがここで行われるのはお寺が鳥辺野に至る道筋にあるためです。現在東山の麓が葬地だったといってもぴんとこない中、伝統行事によってその歴史が綿々と伝えられていることに感じ入ったものです。北の蓮台野についても同様で、千本ゑんま堂や千本釈迦堂でも同様の精霊迎えの場に身を置き、祖霊に対する精神的な思いの強さを目の当たりにしました。

今回向かった化野は嵯峨野にある小倉山の麓の野一帯を指し、化野の「あだし」は「徒し」「空し」、つまりむなしい、実体がない、変わりやすいという意味を持ちます。平安時代庶民は死すると都の周辺に設けられた葬送の地に野ざらしの状態で置かれていました。いわゆる風葬ですが、風にさらされ次第に自然に還っていく土地、無常の地ということで化野という地名が生まれたのでしょう。

その無常の地に横たわる無数の遺骸を空海が埋葬し、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界とし、中央を流れる曼荼羅川の河原に五智如来の石仏をお祀りしたことから、そこが五智山如来寺と呼ばれるようになった、それが化野念仏寺の始まりとされています。嵯峨天皇が信任を寄せた空海を宗祖と仰ぐ大覚寺は、ここと指呼の間にありますが、五智山如来寺も一時大覚寺の所轄だったようです。

化野で行われていた風葬は、時代を経ていつしか土葬になり、石仏や石塔を建て死者が供養されるようになります。今に通じる墓石が現れたということですが、当初そうした石は墓標としてではなく、土葬された死者を通じて現れる悪鬼を封じ込めるためのものだったようで、埋葬が終わるとそのまま放置され朽ち果てるものもありました。時代が進み中世になると、仏教の広まりにより死者の極楽往生を願うようになり、五智山如来寺も法然により念仏道場に変わり寺名も念仏寺と改められます。

 

あいにくこの日は法要中とのことで本堂の扉が閉められていましたが、ここにお祀りされているご本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の湛慶(運慶の長男)によるものと伝わります。本堂と庫裏は江戸時代の再建です。

お寺の歴史としてはこのようなことですが、現在化野念仏寺というと冒頭の写真にある無数の石仏が有名です。これらは明治三十年代に付近に埋没していたものを掘り出し集められたものですから、ごく最近のこととはいえ、石仏が造られた時代は平安時代から江戸時代にわたるといいますから、その時間の開きは千年近くになります。その間死者に対する考えや向き合い方が変化していったことを思うと、目の前にある無数の石仏は化野の弔いの歴史を伝えるものでもあり、胸に迫ります。八千体とあまりにも数が多いので、個々にくまなく目を向けることはできませんが、その一つ一つが造られた背景に、一人の人間の生と死があったということで、人の手でここに集められたとはいえ、葬地としての化野をこれほど強く語るものはありません。ちなみに石仏を掘りだしたのは、無縁仏の救済に力を注いだ宗教家中山通幽で、極楽浄土で阿弥陀如来の説法を聴く人々になぞらえ、十三重塔を中心に据えた広い空間に集められた石仏は中央に向かって並ぶように配されています。

石仏で埋め尽くされたこの場所は、西院の河原と呼ばれます。親に先立って亡くなった子供が親に祈りを捧げながら自らの成仏のため賽の河原で石を積み上げ、石塔が完成間近になると地獄の鬼に倒され、また石を積み上げては倒され、と繰り返しているうち地蔵菩薩によって救済されるという民間信仰が中世あたりから広まります。空也上人の「地蔵和讃」にも「みどり児が河原の石をとりあつめてこれにて廻向の塔をつむ…」とありますが、ここはその光景を想起させることから、西院の河原と呼ばれるようになったようです。

入り口に鐘があります。ちょうど私が行ったとき、鐘をついているところで、その前を通るのが憚られしばらくしんみりと鐘の音に聞き入っていましたが、これは茶沸かしの鐘といって、毎日十一時半に、野で働く人たちに昼の時間を知らせるためのものと知り、少し気持ちが軽くなりました。鐘の音が途絶えたところで中に入ると、足下から言いようのない気配が立ち上り、言葉を失います。

西院の河原内での撮影は、小さな石仏が足下にあって危険ということもあり禁止されているため、外から撮ったものですが、安全性ということ以上に間近で撮影することは心理的にも重く、ここではただ静かにお参りするべきでしょう。少なくとも、一部の外国人観光客のように派手なポーズで写真を撮る場所ではありません。

 

最近の、さまざまな付加価値が上乗せされた墓石とは一番遠く対照的なところにあるのが、これらの石造物です。化野念仏寺に集められた多くの石仏石塔は、名もなき人の生きた証で、その人がどういう人だったのかは一切わかりませんが、そこに何か存在を感じるのは、これらが純粋に生の証であるからではないかと、八千もの石仏の間を歩きながら思いました。

あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の烟り立ち去らでのみ、住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。『徒然草』第七段 吉田兼好

命ははかない、だからこそそれが存在した証を残したいと思うのもまた人の心なのかもしれません。

 

 

 

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