滋賀県に数多ある名刹の中で、知名度も兼ね備えたお寺といえば園城寺(三井寺)でしょう。
一般には三井寺と呼ばれることが多いですが、正式には園城寺ですので、ここから先は園城寺で進めたいと思います。
園城寺は壬申の乱に敗れ自害した大友皇子の息子である与多王が建立した大友氏の氏寺に始まり、平安時代に唐から帰国した智証大師円珍が、唐から招来した経典を納める唐坊を建て、貞観元年(八五九)天台密教の道場とし諸堂を整備、寺勢が拡大していきましたが、円珍の寺門派と円仁の山門派(比叡山)の対立が激化、武力に勝る山門派によりその後数百年にわたってたびたび焼き討ちに遭いました。
現在見られる建物の多くは江戸時代の慶長年間に再建されたものですが、仏像などの寺宝は奇跡的に守られ、いまに伝えられています。
ちなみに三井寺という名は、天台の法儀三部灌頂に御井を使ったという説や、天智・天武・持統の三帝が御井を産湯に使ったという説などがあり、後者が一般に言われているようです。
標高三五四メートルの長等山を背後に抱く園城寺は、金堂や唐院のある中院が中核ですが、秘仏の如意輪観音をお祀りする南院や新羅善神堂などのある北院まで含めると境内は広大で、拝観には丸一日を要するほどですので、今日ここでは中院のごく一部だけをご紹介させていただきます。
中院の表門にあたるのがこちらの大門で仁王門とも呼ばれます。宝徳四年(一四五二)に建てられたもので、以前投稿した寄り道東海道の常楽寺でも触れたように、元は常楽寺の門として建造されたものです。それが後に秀吉によって伏見城に移築、さらにその後家康によって園城寺に移されました。国の重要文化財。厳しい歴史をくぐり抜けてきた園城寺の境内を守るに相応しい風格ある構えです。
そこから先、広大な境内は静寂に包まれ、一歩一歩奥へと足を進めるにつれ、俗世間から隔離された空間に気持ちが落ち着いてきます。
石段を上ると国宝の金堂。慶長四年(一五九九)秀吉の正室・北の政所によって再建されたもので、入母屋造り、檜皮葺の堂々とした建物で、ここにご本尊の弥勒菩薩像(秘仏)などがお祀りされています。ちなみに南北朝に建てられた旧金堂は秀吉の命で比叡山に移され、現在西塔の釈迦堂として使われています。こちらも国の重要文化財。
金堂の南東には三井晩鐘で知られる桃山時代の名鐘(写真上)、西には閼伽井屋(重要文化財)があり、三井寺の名前の由来にもなった霊水が湧き出ています。
また金堂南西の高台には、唐院と呼ばれる園城寺で最も重要とされる一帯があり、大師堂、灌頂堂、三重塔などが建ち並んでいます。唐院とは、天安二年(八五八)に円珍が唐から持ち帰った経典などを納めるために清和天皇から下賜された仁寿殿に始まります。
そして冒頭の写真は、境内南の高台にある観音堂越しに望む大津風景で、写真でははっきりしませんが、ここから琵琶湖を捉えることができます。
観音堂は西国三十三所の第十四番札所で、いまなお参拝者が絶えません。
園城寺の背後には標高三五四メートルの長等山があります。
さざなみの長柄の山の長らへて楽しかるべき君が御代かな
これは『拾遺集』に収められている大中臣能宣の歌ですが、長等山はこのように古くから景勝地として知られ、多くの歌に詠まれてきました。
園城寺は山号を長等山というように、長等山と共に歴史を刻んできました。
明治になり、京都の近代化を一気に押し進めるのに貢献した琵琶湖疎水は、この長等山をくり抜いて造られています。大津の三保ヶ崎で取水された琵琶湖の水は、疎水を通って西に流れ、園城寺の観音堂付近に突き当たり、そこからトンネルを通ってさらに西進します。冒頭の写真が観音堂ですが、まさにこの下を琵琶湖疎水のトンネルが通っていることになります。
そんなことを思い描きながら園城寺の境内を歩くのは楽しいものです。