今回は西国三十三所の第十五番札所、今熊野観音寺のことです。
穴太寺のところでも触れたように、巡礼ということは意識せず、その時々の関心に任せてお詣りを続けていたところ、気がつくと三十三のお寺の半分以上に参詣していました。そもそも三十三というのは、法華経において、観世音菩薩が全ての人の求めに応じ三十三の姿に変化すると説くことに由来していますが、三十三は実際の数というより無限を表しています。つまり観音様は如何なる姿にでも変化して私たちをお守りくださるということです。
京都の三十三間堂もまさにその考えに基づいていますが、すべての人を無限大の姿で救ってくださるというのですから、何と頼もしく大らかなのでしょう。
今回訪れた今熊野観音寺は、京都の東山、皇室の菩提寺で御寺と呼ばれる泉涌寺の塔頭として、泉涌寺の北百五十メートルほどのところにあります。
以前投稿した六波羅蜜寺で触れたように、東山の一つ阿弥陀ヶ峰西南一帯は鳥部野といって平安時代以来の葬送地でした。北西麓は庶民の葬地、南西麓は皇族や貴族の葬地で、厳密には前者を鳥辺野、後者を鳥戸野と書き、区別されています。観音寺のある今熊野は後者の鳥戸野の地にあたります。
歴史を振り返りますと、創建は平安時代の初めの大同二年(八〇七)、弘法大師空海によると伝わります。唐から帰国し東寺で修行をしていた空海が、東山から光が発せられ紫雲がたなびいているのを目にし、当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れ、天照大神が造られたという一寸八分の十一面観音像を空海に渡し、ここに堂宇を建てて観音像をお祀りし衆生を救済するようにと告げたことから、空海はそれに従い、自らも十一面観音像を刻んで熊野権現に渡された観音像をその胎内仏としてお祀りしたことに始まるということです。
その後嵯峨天皇からの支援を受け、天長年間(八二四~八三三)に諸堂が建立されます。さらに左大臣藤原緒嗣の発願で、広大な寺域に伽藍造営が計画され、斉衡二年(八五五)法輪寺として完成しました。このあたりの由緒は泉涌寺にも共通するもので、おそらく広大な阿弥陀ヶ峰西南一帯の鳥戸野に発した一つの信仰が、次第に藤原氏の力と結びつき、一つは泉涌寺に、一つは今熊野観音寺にと個別の発展を見たのではないでしょうか。
ちなみに今熊野観音寺という寺名になったのは、平安時代の後期のことで、それまでは東山観音寺と呼ばれていました。白河法皇(一〇五三~一一二九)の時代この辺りでは熊野修験が盛んで、永暦元年(一一六〇)後白河上皇は当地に熊野権現を勧請し、観音寺の御本尊を本地仏にするのと同時に、山麓には新熊野神社を造営しました。現在新熊野神社は今熊野観音寺の北西およそ一キロほどのところにあり、神社自体それほど大きなものではありませんが、当時の社域は広大で、神社とお寺を結ぶ参詣道(現在の泉涌寺道に相当)が通されると、参籠のために上皇らはそこを往復したと言われています。
話が前後しますが、西国巡礼の始まりは養老二年(七一八)長谷寺開基の徳道上人によるとされていますが、再興されたのはその二七〇年ほど後の花山天皇の時代(九六八~一〇〇八)で、当初一番札所は長谷寺だったものが、平安時代後期には熊野の那智山が一番に替わっています。鳥戸野に熊野権現が勧請され今熊野観音寺と改められたように、札番の入れ替えも熊野詣の盛行と関係があるでしょう。西国巡礼の札所番は室町時代ごろに定まったようで、今熊野観音寺は十五番札所として、今も多くの参拝者が訪れています。
なお巡礼ということでは、今熊野観音寺は西国三十三所の札所である以外に、洛陽三十三所観音霊場の十九番札所でもあります。これは西国三十三所が広範囲にわたり参拝が難しいことから、それに代わるものとして後白河法皇の時代に京都周辺に作られた巡礼です。
前置きはこの位にして、境内の様子に移りましょう。
こちらは泉涌寺の総門。この門をくぐり、両脇に塔頭が並ぶ緑豊かな参道をしばらく進むと、道が三方に分かれます。左(東)に曲がる道が今熊野観音寺への道です。(南に直進すると泉涌寺の大門に至ります。)
こうして東に向きをかえたとたん、目の前に山が迫り、このお寺が東山の裾に潜り込むように鎮座しているのがわかります。程なく冒頭の写真にある深紅の鳥居橋が見えてきます。
境内を包む木々や苔の緑の美しいこと。
こちらが本堂。御由緒にある空海と熊野権現との出会いは、このあたりだったようで、元々ここには奥の院の巡礼堂があったそうです。現在の本堂は正徳二年(一七一二)の建立。御本尊は秘仏ですが、それに代わり御前立がお祀りされています。西国三十三所の札所ということもあり、十人ほどの人が御朱印に列をなしていました。
大師堂のさらに東の斜面には、西国三十三所の各御本尊が石仏として配され、ここで巡礼ができるようになっています。石仏を拝しながら緩やかな道を上っていくと、やがて真新しい深紅の医聖堂が現れます。
医聖堂のある高台に建つと、眼下には京都の町。
東大路から東山に向かって徒歩三十分ほどですが、緑濃い境内の様子といい、この眺望といい、京都というのは今なお自然豊かな山紫水明処だなと思わずにはいられません。