五月中旬、以前から一度は訪れてみたいと思っていた上高地を歩きました。
上高地は奥穂高岳、焼岳といった北アルプスの山々に囲まれた盆地状の沖積地で、梓川に沿って十キロほど平地が続いています。中部山岳国立公園の一部、国の特別名勝、特別天然記念物・天然保護区域になっていますが、槍、穂高連峰など北アルプス登山の玄関口であり、雄大な山はもちろん川や池、森林に湿原といった様々な自然風景が拡がる景勝観光地でもあって、年間百六十万人もの人が訪れるそうですが、日本の多くの山がそうであるように上高地もかつては信仰の聖地でした。
上高地の中心にあって一番人気の河童橋から東に三キロ半ほど歩くと明神に出ます。明神には穂高岳を御神体とする穂高神社の奥宮がありますが、上高地の名は穂高見命が穂高岳に降臨したことを表す「神降地」、あるいは神様が祀られている場所を意味する「神垣内」「神河内」に由来すると言われます。こうした神降る土地の歴史を有する上高地は、やがて仏教と自然信仰が習合した山岳信仰の修行者たちの行場となっていきますが、江戸末期に松本藩による樹木伐採のための開発が行われたのに伴い、次第に開けていきます。その後明治になってイギリスの宣教師で登山家でもあるウォルター・ウェストンが上高地を訪れ穂高岳にも登頂、その様子を著書で紹介したことがきっかけとなり、信仰とは別のレジャーのための登山への関心が広まっていきました。
現在梓川に架かっている吊り橋や、上高地に至るまでのトンネルなどは、レジャー人気に押され近年になって出来ていったもので、今では河童橋周辺などは町中にいるときのような格好でも問題なく歩けるほど整備が行き届いています。本格的な登山経験がなくても、北アルプスの山々を間近に望む絶景を楽しむことができるのですから、上高地人気が高いのはもっともですが、標高は千五百メートルほど、天気は刻々と変わります。降りしきる雨の中、明神までの数キロを歩いたときなど、山の自然の厳しさを垣間見るときもありましたが、そのおかげで得難い体験をすることもでき、人はこうして山に魅せられていくのだなということが僅かながらわかった気がします。
上高地でどんな景色を見ることができるのかは、お天気次第、神様任せです。三日の滞在で神様はいろいろな空模様を見せてくださり、一瞬一瞬が強く印象に刻まれました。絶景を前にすると言葉を失いますが、それは陳腐な言葉で目の前の光景を語ることに畏怖を感じるためかもしれません。上高地はやはり神降る土地でした。
今回上高地へは岐阜県側から入りました。かつて北アルプス越えの難所だった安房峠にトンネルが開通したのは一九九七年。全長五キロを超える長いトンネルで、これが出来たことで岐阜県側からのアクセスが格段に良くなりました。それを抜けるともう一つ釜トンネルがあります。数十年前まではツルハシで刳りぬいたような荒々しいトンネルだったようですが、いまはコンクリートで均されたきれいなトンネルです。バスが釜トンネルを抜けると視界が開けます。最初に目に飛び込んできたのが、この景色でした。大正十五年(一九一五)焼岳の噴火によって梓川の水が堰き止められてできた大正池です。バスはあっという間にここを通過してしまいますが、上高地との最初の出会いは強烈な印象を残してくれました。大正池のことは続きの(二)でまた。
上高地といえば河童橋というほど上高地を代表する人気の場所です。梓川に架かる木製の吊り橋からは下流方向に焼岳、上流に穂高連山を望み、足下には澄み切った梓川が流れています。上高地を訪れたらまずここへという人がほとんどではないかと思います。私たちも例に漏れずまずは河童橋へ。
下流方向から河童橋へは、こうした木道のコースもあります。木道には猿の落とし物らしきものが点々と続いていました。運が良ければカモシカやオコジョ、野ウサギ、リスなどに出会えるようですし、もちろんここにはツキノワグマも生息しています。森林の中を歩くときは、クマ鈴を鳴らしながら。
林間を縫う木道から、カラマツや化粧柳に縁取られた川沿いの道に出ます。川はどこまでも透明で、青緑の流れに吸い込まれそうです。行く先に聳える穂高連山に圧倒されながら河童橋を目指します。
奥穂高の迫力に圧倒されっぱなしです。
田代橋付近からですと三十分ほどで河童橋に到着します。ここに橋が架けられたのは明治二十四年(一八九一)、初めは両岸から木材を架ける跳ね橋だったようで、現在のような吊り橋になったのは明治四十三年(一九一〇)。その後何度か掛け替えられ、現在の橋は五代目、平成九年(一九九七)のものです。長さ三十六メートル、幅三メートルの橋は人が歩くたびにゆさゆさと静かに揺れます。人工の橋ですが見事に風景に溶け込んでいて、見飽きることがありません。
河童橋から下流を見ると、雪の残る焼岳が。
上高地では神様は山だけでなく川にもいらっしゃるのでしょう。梓川の清冽な流れを見ていると、すべてが浄化されていくようです。
梓川に架かる河童橋の由来は、昔河童の住む深い淵があったとか、橋がなかった時代衣類を頭に乗せて川を渡る人の姿が河童に似ていたからとか諸説あるそうです。河童と聞いて滋賀県高島市を流れる安曇川流域に伝わる話を思い出しました。安曇川流域には「シコブチ」という名の神様をお祀りする神社が点在しています。安曇川は朽木の山の材木を筏で運ぶ際の運搬路として使われていましたが、この川も上流は急流のため水の事故が後を絶ちませんでした。河童が悪さをしているということで、河童をこらしめる水難除けの神様としてシコブチ神の信仰が広く根付いていったのですが、ここに限らず日本全国川や沼、池といった水のあるところには至るところに河童の伝説があります。河童は龍などと同じ水神と考えられていますが、秋冬になると山に戻って山神になるとされることもあります。川は山に発するもの、川と山はいわば一体なので、両方に住処があっても不思議ではありません。河童は悪さをするといってもどこか憎めず、神といっても愛嬌があって崇拝の対象ともまた違います。自然と人間の間を行ったり来たりするうち、どこか人間くささを帯びてきた精霊のような気がしますが、そのおかげで愛される存在になっていったのかもしれません。
そういえば、芥川龍之介の最晩年の代表作『河童』に登場する河童たちは、人間界とは正反対の価値観や常識で暮らす高等生物で、人間社会を風刺したり批判したりする存在として描かれています。芥川は河童の絵を好んで描くほど河童を愛しており、芥川の命日は河童忌と呼ばれます。この作品は芥川が命を絶つ四ヶ月前に発表されたこともあり、その動機を作品中に探る向きがありますが、自身の内部に抱えてきた苦悩や疑念などを河童に託して語らせることで、精神の救いを求めたということもあったのではないかと、そんな気がしなくもありません。
それはともかく、現在の河童橋付近はインバウンドの大波をかぶり日本語がかき消されてしまうほどです。これから夏に向け、ここはもっと大勢の人がひしめく場所になるので、よほどの早朝か雨の日以外は河童が出てくるような神秘的な時間はないかもしれません。