古社寺風景

能勢妙見山

大阪府の最北端に能勢町というところがあります。

東は京都府亀岡市、西は兵庫県猪名川町、南は大阪府豊能町と兵庫県川西市、北は京都府南丹市と兵庫県篠山市に接し、標高五百メートルから八百メートルの山々に囲まれた長閑で自然豊かな山里です。

町全体が標高二百メートルほどなので、大阪の中心部に比べると気温が低く、大阪の軽井沢などと呼ばれることもあります。

能勢というと、芸能に関心のある方なら江戸時代から続く浄瑠璃を、自然が好きな方なら棚田百選に選ばれた長谷ながたにの棚田を思い浮かべるでしょうか。私も能勢の棚田風景に魅せられている一人で、これを書きながらまた行ってみたい気持ちに駆られていますが、今日は能勢町の南、兵庫県と大阪府にまたがる位置にある妙見山のことです。

この山は名前の通り古くから妙見信仰の対象として崇められてきました。

妙見信仰は一言でいうと北極星や北斗七星を神格化したとされる北辰妙見菩薩に対する信仰ですが、そもそも星に対する信仰は紀元前に砂漠を移動する遊牧民が方角を間違えないようにと目印にした北極星に対する信仰に遡るとされ、それが後に中国に伝わって道教と習合しました。道教では北の空にあって動くことのない北極星を、宇宙を支配する最高神(天帝、太一神)として崇め、天帝の乗り物である北斗七星は人々の行いを監視し生死禍福を支配するものと捉えていました。それがさらに後に仏教の菩薩信仰と習合し、妙見菩薩として日本に伝わったと言われています。

こうして日本に伝わった妙見菩薩は、名前は菩薩ですが仏教的な菩薩とは異なり、毘沙門天や弁財天などと同じ天部の一つとされています。北辰の象徴である玄武と共に祀られることも多く、護符を使って魔除けにするなど、道教的な色合いが濃いのが特徴です。

妙見信仰がいつ日本にもたらされたのかということについて、確かなことはわかりませんが、奈良県明日香村にある高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に北極星の象徴である玄武像や北斗七星が描かれていることから、古墳時代後期の七世紀頃かもしれません。

大化の改新によって、律令国家として歩み始めることになると、七世紀後半天武天皇の時代に「天皇」という称号が用いられるようになります。そうしたところにも、北辰妙見信仰の影響が見て取れます。

朝廷の権力と結びつき、全宇宙を支配する最高の神の象徴として崇められるようになっていった妙見信仰は、その後も習合により変化し続けることになります。

滅亡した百済からの渡来人たちによってもたらされた陰陽五行思想と習合、さらに後の平安時代には空海によってもたらされた密教の呪法や宿曜道(占星術の一種)などとも習合し、日本独自の信仰形態になっていきました。

時代下った戦国時代には、武神としての性格を強め、千葉氏、相馬氏、大内氏らに守護神として崇敬され、東国にも広まっていきました。

また神仏習合が進むと、妙見菩薩は天御中主神あめのみなかみぬしのかみとも習合します。天御中主神は『古事記』冒頭天地開闢のところで、混沌の中から最初に成り出でた造化三神の一神。世界を創造し支配する最高神という点で結びついたようです。

このように、妙見信仰は時代ごとにさまざまな信仰と習合し複雑で多様な面を持っていますが、原点である星への信仰はもっとシンプルで普遍的だったはずで、先史時代の人々の心にも通じる星のことを考えていると、国境や時代を超え、広大無辺の世界に誘われる思いがします。

 

前置きが長くなりましたが、妙見信仰の聖地である能勢妙見山へ。

山としての妙見山は標高およそ六六〇メートル。その山頂近くに日本三大妙見の一つ、能勢妙見山があります。正式には無漏山真如寺境外仏堂能勢妙見山というように、ここは真如寺の飛地境内にあたります。

日蓮宗のお寺ですが、杉林の先に大きな鳥居。神仏習合の名残を伝えています。

 

参道に日乾上人(一五六〇~一六三五)像と能勢頼次(一五六二~一六二六)像があるように、能勢妙見山を開基したのは安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍し、能勢家を中興した能勢頼次で、ここにお祀りされている妙見菩薩は能勢一帯を治めていた能勢氏が代々守護神としてきたものです。

  

能勢頼次は清和天皇の曾孫にあたる源(多田)満仲(九一二~九九七)を祖とし、大江山の鬼退治で知られる源頼光(九四八~一〇二一)の流れを汲んでいると言われています。その満仲が摂津國多田(現川西市)に本拠を移した際、一族の繁栄を祈って妙見菩薩をお祀りしたようで、三代目の頼国の代に能勢氏を名乗って以降も、満仲以来の妙見菩薩を守護神としてきました。

時代下って戦国時代、二十二代目の能勢頼通が織田信長に従っていた塩川氏に謀殺されたことから、弟である頼次が急遽二十三代目となり、当時為楽山と呼ばれていた妙見山に城を構えました。

それから間もない天正十年(一五八二)本能寺の変が勃発。頼次は明智についていたのですが、明智は京に戻った秀吉に滅ぼされ、能勢の地も秀吉によって攻め込まれると、頼次は備前に落ち延び、妙勝寺という日蓮宗の寺にしばらく身を潜めることになりました。

無念の隠棲でしたが、頼次の弟が京都実相寺の住職だったことがきっかけで、家康の家臣となり、関ヶ原の戦いで戦功をたてたことから再び能勢に戻ることができたといいます。

能勢氏の再興を仏に感謝した頼次は、日乾上人に帰依、土地を寄進しそこに寺を建てました。それが真如寺で、能勢で仏の教えを広める日乾上人は、妙見菩薩の像を自ら刻み、能勢を一望する為楽山山頂にお祀りしたことから、以後この山を妙見山と呼ぶようになったと伝わります。慶長八年(一六〇三)江戸幕府始まりの年のことです。

ところで、ここに書いたのは能勢氏の守護神としての能勢妙見山の始まりで、能勢における妙見信仰の伝播はそれよりもさらに遡ることができるようです。

そもそも為楽山(妙見山)に北辰星をお祀りしたのは行基(六六八~七四九)だと言われています。寺伝では妙見山がまだ為楽山と呼ばれていた頃、星の王がこの山に降りてきたという言い伝えがあったことから、天平勝宝年中(七四九~七五七)村人達が行基に請い、山頂に北辰星をお祀りしたというのです。

妙見山の北西、能勢町野間稲地に元妙見と呼ばれるお堂があり、そこには天から降ってきた星をお祀りしていると言われていますので、もしかしたら実際能勢の地に隕石が落下したということがあったのかもしれません。

それはともかく、能勢の地に行基の名前が出てきましたので、そちらに話を移したいと思います。行基開基と伝わるお寺は全国に六百近くもあり、その伝承すべてを信じることはできませんし、能勢にしてもしかりなのですが、能勢の西には猪名川が流れていて、その流域には行基にまつわる伝承が複数見受けられます。

たとえば猪名川町木津には行基による四十九院の一つ、楊津院やないづいんがあったと言われますし、伊丹市の昆陽池や昆陽寺も行基によると伝わります。また猪名川と神崎川が合流する辺り(現在の豊中市庄本町)に鎮座する椋橋総社には、昔当地に行基が留まった際猪名川に橋を架けようとするも、流れが速くうまくいかなかったことから当社に祈りを捧げたところ、多くの鯉が集まり架橋工事を助けてくれたことから、以後鯉を氏神の使いとして大切にしたという伝説もあります。

行基といえば、各地への布教のかたわら橋を架けたり水路や溜池を造ったり、布施屋と呼ばれる行き倒れの人を救うための救護所を造ったりと、多くの社会貢献事業を行ったことでも知られますが、そうした事業は専門家や信者らで構成されるいわゆる行基集団が手がけたと言われています。

土木事業の専門家ということで思い浮かぶのは秦氏です。治水の知識技術に長けていた秦氏は葛野大堰の造成や桂川の灌漑工事を行うなど、その功績は枚挙にいとまがありませんが、行基の伝承地と重なることが多いのです。あくまでも推測ですが、秦氏は土木治水の専門家として行基集団の仕事に加わっていたのではと思います。

では猪名川沿いに秦氏の足跡が見られるのでしょうか。結論からいうと見られます。

能勢の南にある池田は、律令制の時代の摂津國豊島郡秦上・秦下郷に相当し、機織りの技術を伝えたとされる織姫・穴織媛をお祀りする伊居太いけだ神社と呉服媛をお祀りする呉服くれは神社が鎮座し、前者は秦上社、後者は秦下社とも呼ばれていました。また五月山の東に巨大な石室を持つ鉢塚古墳がありますが、被葬者は秦氏ではないかと言われています。

その池田と能勢の間には能勢街道が通り、同時に猪名川の水運によっても結ばれていました。

「住吉大社神代記」に能勢の山の木を水運を使って運んだことが記されているように、能勢の山は杣山として重宝されていたようです。能勢から運び出された木材は猪名川を南下、難波から大和川を遡れば大和国に、淀川なら山城国に通じていました。

海や河川による輸送にも力を発揮した秦氏ですから、能勢の木材は船材として使われたのかもしれませんし、また各地の寺院や都の建設に用いられたかもしれません。

大和川沿いでは大阪府太子町に妙見寺が、奈良県斑鳩町には妙見山法輪寺がありますし(いずれも推古天皇の時代の創建と伝わります)、淀川でいうと久々知山広斉寺が妙見菩薩をお祀りしていることなどからも、水運に携わる秦氏が妙見菩薩を交通安全の信仰対象とした可能性が考えられます。

とすると、最初に能勢に妙見信仰を伝えたのは行基ではなく秦氏だったかもしれません。

想像ついでにもう一つ。妙見山の山頂付近に縄文時代からのブナの原生林があることから、星に対する信仰はその時代まで遡る可能性もあるのではという気もしています。

冒頭星への信仰は紀元前遊牧民の間でおこったと書きましたが、そもそも夜空を見上げ不動の星を目印にしたのは古代の遊牧民に限らず、大海原を航海する海人族たちも同じでした。縄文時代日本列島にもそうした海人族が流れ着き、陸に上がって山に分け入りましたが、それは山に食糧や船を造るための木材はもちろん、金、銀、銅、水銀といった鉱物資源が豊かにあったからで、彼らはそれらを求め移動を繰り返しました。その際方位の目印になったのが星でした。自然をよく観察していた彼らは、天体の動きや配列が気象や天変地異にも関係することを熟知していたと思われますので(考古学の方面では認められていないようですが)、それを司る星を神として崇め、祈りを捧げたのは自然の成り行きだったかもしれません。各地の山に残る巨石群はその名残とも考えられます。

能勢妙見山で磐座らしきものを目にしたわけではなく、ブナの原生林の存在から思いついたまでですが、そうだったら…という希望が私の胸の内で膨れあがっています。

能勢妙見山に思いを巡らせていたら、話は縄文時代まで来てしまいました。星への信仰は時代においても範囲においても、壮大なスケールの中で受け継がれてきたものですから、多少の飛躍はお許しいただけるでしょうか。

 

最後にもう一点だけ。長年道教は日本列島に本質的な影響を与えることはなかったと言われてきました。そうした道教の影響を否定する考えの原因は、仏教の地位を確立しようとするばかり道教を認めてこなかった古代に遡り、さらに江戸時代本居宣長らの国学者たちによる神の国思想によって否定されたことで追い打ちを掛けられたようですが、妙見信仰のことをほんの少し探っただけで、道教の存在がありありと浮かび上がってくるように、道教の影響を抜きに日本の歴史は語れないように思います。

日本列島は各地からさまざまな思想宗教文化が流れ着く吹きだまりで、混ざり合い溶け合うことで独自のものを生み出してきました。妙見信仰もその一つなのだと思います。国家を形成していくうえで、都合の悪いものを切り捨てたり抹消したりするのは、世界中どの国でもどの時代にもあることですが、その切り捨てられたところに大切なエッセンスが含まれているということがあります。道教を知ることで、日本の歴史への理解がさらに深まる、そんな気がしているところです。

 

 

 

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